しかし、バスケットボールの高校の全国大会を見たことがある人なら、セネガルというと、一部の全国レベルの強豪校が必ず一人連れている黒人の出身国ということを思いつくような気がする。中学以来一応バスケを続けている私はその部類だった。
そこで、今回の私のセネガル滞在の目的の一つとして、一体どうやって遥々セネガルから日本まで高校生がバスケをしに来るのか、その実態を少しでも見る、ということを掲げていた。
*セネガル北部にあるモーリタニアの政情不安定化によるものだそうです。参考:http://www.dakar.com/dakar/2014/us/route.html
ダカールのタクシー乗り場Pompie、ポンピエーには、乗客を待つ白いプジョーが無数にどこまでも並んでおり、砂っぽい大地に青い空から強い日差しが差し込んできていた。プジョーの間を、自分の目的地に行くプジョーを探す乗客たちや乗客を各々の目的地に行くプジョーのところまで案内する若者たち、乗客相手にぱちもんのイヤホンからベルトまでどこで見つけたのかわからないものを売る売り子たちが行き来しており、多くのアフリカのバス乗り場などでそうであるように、そこは混沌としていた。夜になれば、無数の車のライトが暗闇の中でナウシカのオウムばりに赤く黄色く光っているのだろうか。カンパラのバス乗り場の光景を思い浮かべながらそんなことを思った。宿からタクシーで来た自分の目に飛び込んできたその光景は、『これぞアフリカ』と言わんばかりのものだった。
しかしよく見ると、誰が読むのかわからないような小さな看板に行き先が記されており、車は意外と規則正しく並んでいる。乗客も、自分の目的地にたどり着くプジョーの乗り場を把握しているらしい。タクシーから降りた私にすぐさま話しかけてきた青年にThies、ティエスと告げると、何の迷いもなく乗り場まで連れて行ってくれた。
しかしよく見ると、誰が読むのかわからないような小さな看板に行き先が記されており、車は意外と規則正しく並んでいる。乗客も、自分の目的地にたどり着くプジョーの乗り場を把握しているらしい。タクシーから降りた私にすぐさま話しかけてきた青年にThies、ティエスと告げると、何の迷いもなく乗り場まで連れて行ってくれた。
セットプラス乗り場の様子。止めてある車の99%がプジョー車。
撮影角度のせいでわかりにくいが、Thiesの文字が見える。
アフリカの大きなバス乗り場などでそうであるように、これから短い旅に出る乗客を相手に売る飲み物や食べ物を担いで歩く売り子、ベルトや財布などの売り子、乗客の案内人、そんな人々でごった返している。こんなありふれた光景の中で、一つ西アフリカに特徴的なのが袋水である。その名の通り、比較的丈夫なビニール袋に400mlの水が入っているだけの簡単なものだ。だいたいかなりの安値で売られており、どこで冷やしたのか袋から結露の水が滴っていることもあり、袋の端っこを噛みちぎって、そこから少しずつ水を飲むのだ。地元のレストラン等でも、コップ一杯の水の代わりに、コップに袋水をぽんと入れて出してくれる。少なくともシエラレオネとリベリアではそうだった。日本的に言えば500mlペットボトルの代わりで、どこでも安心して飲むことができる生命線である。私は長距離の移動中などでお世話になった。
ティエスとダカールの位置関係。だいたい100kmくらい。
予定通りガンビアのビザが取得できていれば、セットプラスに乗って片道6時間でセネガルとガンビアの国境まで行く予定であったが、ビザを取得できずカーポヴェルデに行ったのでそれができなくなった。バックパッカーとしては空路にばかり頼ってはいけないと思っていたので、どこかでセットプラスに乗りたいと思っていたが、ティエスへ行くのに利用できて良かった。ダカールに来たのに街の店も陸路の移動手段もよく知らないというのでは恥ずかしい。
ティエスはダカールから近いせいか、私は1人目の乗客だったがすぐに7人集まった。人が集まってきたところで係りの人?が乗車賃を集め始める。私は5,000フランしか持っておらず嫌な顔をされたが、同乗者の人に両替してもらって支払うことができた。セネガルの人はみんな親切だ。前にバスに乗った時も、車掌さんから遠い席の人が乗車賃を支払うのに乗客みんなで小銭を渡してあげていた。
「セットプラスは速いよ!ティエスだったら2時間くらいで着くんじゃないかな?」
同宿だったアメリカ人の言葉の通り、最初はダカール市内を順調にとばしていた。しかし、途中、工事で車線が減っていたため、非常に混雑していた。スタックしている間1時間ほど、周りに汚い排ガスを出すトラックがいるわ、窓を閉めると暑いわ、やや八方塞であった。ダカールの渋滞は合流か事故のいずれかのようだが、最初は渋滞の原因がわからなかったため少し辛かった。渋滞を抜けた後はスカスカで快調に飛ばしてティエスに向かった。
正午ごろにダカールを出発し、14時過ぎにティエスに到着した。ダカールの乗り場ほどではないが、ティエスの降り場も無秩序であった。袋水のビニールや果物の皮などがその辺に無造作に捨てられており、汚い水たまりがいくつもあった。
私がティエスという普通の観光客ではまず行かないような町に来たのは、冒頭に述べたような経緯があったからだ。西アフリカ渡航前にネットで調べた限り、このティエスにSEED(http://www.seedproject.org/)というバスケ養成プロジェクトの施設があるということだけわかり、とりあえずその町に来てみた、というわけである。それ以外の情報は何もなかったので、その場でどうにかしようというノープランでティエスまで行ってきた。
とりあえずSEEDという名前だけわかっていたので、セットプラス降り場にいた若者に聞いてみることにした。すると、いきなり知っているかもしれないと言い出すではないか。が、その若者のフランス語が全くわからず、書いてもらった地図で合っているのか不安しか残らない。しかし他に手がかりもないため、仕方なくその地図に従って行ってみることにした。
ダカールが雨季でも砂っぽかったように、ティエスも緑は少なかった。日差しを遮るような大きな木は幹線道路にしかなく、そこを外れると昼間の強い日差しが降り注ぎ、朝からいろいろロジ関係の作業に追われており昼ごはんを食べていなかった私はやる気を削がれた。
先ほどの地図ではあまりに頼りないので(写真でも撮れば良かった...)もう少し手がかりが欲しいと思い、道行く高校生くらいの少年少女に声をかけるも全然知らないと言われる。やはりなかなか手がかりは手に入らないとげんなりした私であったが、次に声をかけた大学生が当たりであった。私の歩いていた道沿いに、国旗の立ったいかにも公共施設っぽい建物があったので、次なるヒントを求めて中に入ってみた。すると、すれ違いで出てきた長身の男性がいたので、この辺でバスケ選手を養成している機関がないかと聞いてみたところ、バスケだけじゃなくサッカー選手も養成しているCNEPSという公的機関がありSEEDはその一環だと教えてくれた。これだ!非常に正確にしかも丁寧に教えてくれた若者の名は残念ながら忘れてしまったが、感謝の意を伝えて再び歩き始める。ありがとう!
彼と会った場所からさらに15分ほど歩いたところに、明らかにサッカーグラウンドと思われるものが見えてきた。道路の反対側には体育館らしきものも見える。着いた!最初はどうなることかと思ったが、最終的にはティエスに着いてから30分ほどで着くことができた。意外と簡単に着いて拍子抜けした。
辿りついたのはいいものの、練習がなかったら意味がない。そこで恐る恐る門にいたセキュリティガードに、今日は練習があるか聞いてみたところ、16時から開始予定だという。現在15時。まだ時間があるので、昼ごはんでも食べるべくその辺をふらふら散歩することにした。といっても門の横にちょっとしたお店がある他何も見当たらなかったのでどこで昼ごはんを食べられるという当ても特になかったのだが。
CNEPSの門。道を挟んで両側に施設がある。
CNEPSの間にある道。ここだけきれいに舗装されていたような気がする。
辿りついたのはいいものの、練習がなかったら意味がない。そこで恐る恐る門にいたセキュリティガードに、今日は練習があるか聞いてみたところ、16時から開始予定だという。現在15時。まだ時間があるので、昼ごはんでも食べるべくその辺をふらふら散歩することにした。といっても門の横にちょっとしたお店がある他何も見当たらなかったのでどこで昼ごはんを食べられるという当ても特になかったのだが。
セットプラス乗り場から来た道をそのままCNEPSを通り過ぎて歩くとすぐに未舗装の道路になり、両側に地元の人の家と思われる建物が並ぶようになった。私が長期滞在していたケニアの田舎町と比べてみると、古くてもちゃんと家が建っているしそこまで経済的に貧しいわけではないんだろうなとなんとなく思った。ダカールからそう遠く離れているわけではないし、ティエス自体それなりの町らしいので、少し中心地から外れたくらいでは風景は変わらないのかもしれない。
目的のお昼ご飯である。私はセネガル滞在5日目(実際の滞在時間はカーポヴェルデへの移動時間があるのでもっと短いが)にして、まだセネガルのある地元飯にありつけていなかった。チェブジェンである。ご飯に焼き魚を乗っけた簡単な料理で、日本でいうところの牛丼みたいなものかもしれない。玉ねぎの炒め物であるヤッサは2回食べたのに、チェブジェンは未体験であった。時計は15時を回り、地元の人向けのレストランらしきものすら見当たらないエリアでチェブジェンに拘るのはあまり頭が良くないとは思ったが、地元飯なのでどこかで食べられるだろうと思いそれを探し求めていた。
ふらふらしていると、道沿いに小さな屋台があり何か料理をしていたので、お昼御飯を調達するべく声をかけてみた。見たところチャパティーらしきものは作っていたが魚は見当たらなかった。すると、お昼を食べたいのならついてきなよということで、そこにいた人が連れて来てくれたのが、結局CNEPSの前にあったお店であった。
やはりセネガルの人は親切だった。私が、まだお昼を食べてなくてお腹すいてるんだ~、と言うと、お店の人はお店の奥に案内してくれ、恐らく自分たちが食べていたのであろうご飯を私にくれるというのだ。朝食もまともに食っておらず、いろいろあって金欠だった私にとってこれほど嬉しいことはない。ありがたく、ありがたく、ご飯を頂いた。味付けされたライスと野菜は日本人の口に合い、とってもおいしく、おまけに、私が食べ終わるとジュースまで持って来てくれた。最初は衛生的に大丈夫かやや不安だったが、しばらくたってもお腹が痛くなることもなく、ご好意を無駄にせずに済んだ。本当にありがとうございました。
旅の一番の魅力とは何か。それはやはり地元の人と話をしたり、交流できることだと思う。私はそんなにコミュニケーションをとるのが上手くないが、ふとした機会に人の暖かみに触れることができると本当に心が満たされる。この点では今回の旅は前回東アフリカを回った際より遥かに充実した旅になった。
ご馳走してくれたご飯。煮込んだキャベツやトマトとお米を炒めたもの。とてもおしいかった!
ご飯をご馳走してくれたお店の人たち。明るくでとてもいい人たちだった。
こうして腹ごしらえをすることができたので、練習が始まるまでCNEPSの前で待っていることにした。その間、店の前にたむろしていた人と話をしていたが、近くにアメリカのピースコープの人が来ているという。もし会えるのなら話をしてみたいと思ったが、ここから近くにいるようではなく、その日は会えなさそうだったのでやむなく諦めた。
時刻は16時に近付き、だんだん少年少女たちが集まり始めてきた。ダカールで街ゆく人を見ていてもバスケをしていそうな出で立ちの人を見たことがなかったので、どんな子たちが参加しているのだろうと思っていたが、みんなそれぞれバスケウェアを着てバッシュを履き、いかにもな子どもたちばかりだった。アフリカに来ると全てが日本と異なるので、日本人と同じようなウェアを着てバッシュを履いている姿を見るだけで親近感を覚えて少し嬉しくなった。みんな、私を見ると物珍しそうに近寄ってきて、
「どこから来たんだ?」
「バスケをするのか?」
「俺のシュート見てくれよ!!」
など口々に話しかけてきた。
(私)「君たち何歳?」
(A)「17歳!」
(私)「そうだよね、背高いし大人っぽいもんね!」
(B)「ウソだ、Aは14だろうが!」
(私)「え、どっちどっちw」
体育館が開くまでの時間、みんなでワイワイ楽しそうに騒いでいて、日本の中高生を見ているようでこちらも楽しかった。私はバスケに参加するつもりでボールを持って来ていたので、それで一緒に遊んだりして戯れていた。持って来ていたボールは、7,8年前に買ったエナメルボールでそれなりに使いこんではいたし新しくはなかったが、みんな良いボールだと言ってとても欲しがっていた。後で練習で使っているボールを見たが、ラバーでそんなに質が悪いとは思わず、練習するのに数が足りないというわけでもなさそうだった。恐らく皆、自分のボールとして欲しいと思ったのだろう。
そうこうしているうちに最初は10人くらいだったのがどんどん増え、最終的には60人くらいにはなっていた。
体育館が開くのを待っている子どもたち。
体育館の入り口。外見よりは質のいいコートとリングだったと思う。
*以下に書くことは、バスケの一素人に過ぎない私の体験に基づく主観であることをご了承頂けると幸いです。
体育館はNBAとNIKEの支援で建設されたもので、屋内ではあったがラバーのコートだった。公式サイズのコートを1面+半面とれる大きさで、リングは3つ設置されていた。ボールはNIKEから寄付されたものと思われるラバーのボールで50個ほどあったと思う。
この日の練習はエリート選手育成プロジェクトのトレーニングではなく、一般開放的に公募して集まった子ども達を対象に行っている数日間の合宿練習だったようで、いかにも普段から練習をしているとても上手い子から初心者に近い子まで、様々なレベルの子が参加していた。年齢層は12歳くらいから19歳までで、男女混合で初心者と経験者の2つのグループに分かれて練習していた。この日、練習を取り仕切っていたのはセネガルナショナルチームのアシスタントコーチのアサンで、もう一人のアシスタントと一緒に指導していた。
ちなみに体育館内の写真は残念ながらない。アサンに何度も撮らせてくれと頼んだのだが、スポンサーの関係で写真内にロゴが入ったりすると困るから、ということで、じゃあロゴが入らないようにするからとかなり粘ってみたが、それでも申し訳ないけど控えてくれ、と言われたので止むなく諦めたという次第である。
コートの周囲を10分程ランニングしてから簡単にストレッチをしてアップを済ませた後、経験者グループと初心者グループに分かれ、経験者グループはアサンの指導のもと、ハーフコートでミニコーンを使ったドリブルとシュートのドリルを何種類かひたすら練習していた。初心者グループはもう一人のアシスタントのもと、4チームほどに分かれてずっとゲームをしていた。
経験者チームの練習を遠目に見ていたが、背が高くて軽々ダンクをしたり、背が低くても身のこなしがしなやかでハンドリングも良く、やはり運動能力が高いという印象だった。また、皆だいたいドリブルが上手く、レイアップなどゴール下近辺のシュートもかなり器用だと思ったが、外角のシュートはあまり上手くないように見えた。ミニコーンを置いたドリルではミドルポストくらいの距離からのシュートも練習していたが、ドリブルやゴール下の技術に比べると明らかに相対的に精度が低かったからだ。原因を考えてみたが、恐らくちゃんとしたリングやコートが少ない練習環境では外角シュートが練習できず、ゴール下近辺のシュートや、リングの有無に関わらずできるドリブルの練習ばかりに偏ってしまうことかと思われた。後でアサンから聞いた話では、セネガル全体で、私が見たコートを含めて屋内コートは確か4つしかないということだった。みんなバスケが好きで、高い運動能力を持って練習に取り組んでいるのに練習環境が不十分でポテンシャルを発揮できないのはとても残念なことだと思わずにはいられなかった。
そんなこんなで16時過ぎに練習が始まって45分ほど練習を見ていたが、外で雨が降り出した。すると、体育館の屋根から雨漏りし始め、豪雨で体育館の中に小さな水たまりができてしまい、練習が中断された。私は、ダカールの宿に暗くなる前に戻るつもりだったので、17時には体育館を出て19時頃にはポンピエーに着く予定だった。しかし、もう少し練習を見ていたかったし、何より豪雨で足止めされてしまったので、今しばらく体育館にいることにいた。コーチングしていたアサンも、水たまりはどうすることもできず、暇を持て余していたので少し話をした。(ちなみに彼とは英語で話すことができた。)
2004年から2007年頃まで日本へのリクルーティングを担当しており、日本には5回程行ったことがあるそうだ。キュウシュウと言っていたので福岡第一や延岡学園などのことだろうと思う。私は2007年頃に東京の八王子にいたニャーンのプレーを見たことがあったので、凄く活躍していたねと振ると、今彼はアメリカでプレーしていて将来に期待が持てるんだ、とアサンは嬉しそうに話していた。
今シーズンからNBA選手になったセネガル人が2人いるそうで、1人は今はミネソタ・ティンバーウルブズにいるGorgul Dieng選手(http://www.nba.com/playerfile/gorgui_dieng/)で、もう一人は私の知識不足でわからない。Diengは大学からアメリカでプレーしているようで、去年のNCAAのBig East Championship GameにてLouisvilleでプレーしているのを見た。運動神経が良く、NBAのハイライトにも迫力あるブロックで登場している。私の知る限り、過去にもう一人セネガル人選手がいて、2006年NBAファイナルでダラス・マーべリックスのセンターをしていたDesagana Diop(ジョップ)選手である。あんまり出場時間は与えられていなかったが、やはりディフェンス面で貢献していたような記憶がある。ちなみにジョップはフリースローがあまり上手くなく、珍プレイ集でフリースローをエアーボールしているところが動画になっていたりするが、先ほど書いた事情等を考慮すると気の毒な気もする。2013年9月当時、セネガルは2014年のワールドカップ出場をかけてFIBA Africaでナイジェリアやアンゴラ等と試合をしており(確か同時期にヨーロッパと南米でも予選が行われていたはず)、アサンもセネガル代表に同行して、コートジボワールまで遠征に行っていたそうだ。どこに勝ったかは忘れてしまったが、とにかく予選を勝ち抜いて3位としてワールドカップ出場権を獲得したんだ、とこれも嬉しそうに言っていた。2012年ロンドン五輪ではチュニジア、ナイジェリアが出ていたが、セネガルは国際大会ではあまり聞いたことがなかった気がしたので、その話を聞いて嬉しくなった。
毎年25人程の選手でシーズンにトレーニングを行っているそうで、その中で優れた技術を持っている子は欧米や日本に留学できるらしい。メンバーは恐らく毎年固定されており、留学に行ったり、留学できなくともそのまま国内で卒業して行ったりしてできた空席に新入メンバーをリクルーティングしているそうだ。外国に出て行くのは毎年2,3人だそうで、日本に来ているセネガル人もその枠。
アサンはバスケ選手の育成に対して日本から何かしらの形でサポートを受けたいと話していた。日本人にとってセネガルはどんな国なのか、セネガルは日本人にとってビジネスをするのに良い環か、など私に聞いてきた。普通にアフリカを歩いていて地元の人と話をすれば日本について聞かれるのは全く珍しくない。そしてこうした会話には概して、日本人は裕福でアフリカにいる自分たちとは違う存在だ、とか自分たちは貧しく日本人とは立っているステージが違うといった語感が程度の差はあれ含まれているように思われる。だから自分たちに物を恵んでくれとかそんなことは言わないが、とにかく立場の違いが所与のものとしてあるというある種の偏見がある気がする。しかし、アサンの質問にそのような語感はなかった。ナショナルチームのアシスタントコーチに選ばれるくらいだから頭が切れるのだろうし、日本を何度も訪れたり海外に遠征したりしてその国の人と話をしたり、母国を離れて客観的に考える機会が多かったりすることが要因かと思ったが、恐らくはセネガルのチームを強くするにはどうしたら良いかを真剣に考えているからだという結論に今のところ至っている。しっかり練習をしてチームを強くしていきたいが、バスケの練習をするに十分な環境がなく、それを整える資金も不足している中で、どうすれば日本から支援を受けられるか、そのインセンティブが何かをチーム運営側の人間の一人として考えているのだろうな、と思う。
アサンの質問に対しては、やはりセネガルは物理的に遠いし、日本人の認知度は高くないと正直に答えておいた。アサンも客観的な意見が欲しい、とちゃんと言っていたのでそこは気遣いすることなく答えることができた。
アサンが日本からサポートを受けたいと言っていたのは、セネガル側から選手を送り出しているのにその対価が小さいということなのかと感じた。私は選手の受け入れについて日本の高校とセネガルのCNEPSの間でどのような契約が交わされているか知らないので、本当に対価が小さいのかどうか恥ずかしながらわからない。確かアサンは自分たちの渡航費も自費だと言っていた気がするので、アサンの話を聞いている限りではあまり対等な関係ではないなと思う。私も一人の日本人バスケプレーヤーとして素人ながら何か貢献したいと思いはするものの未だ何もできていないので、何か大きなことを言える立場には全くないと自覚していつつも、日本の高校側も単に留学してきた選手にバスケの将来を提供するだけでなく本国の方にも何かしらの形で支援できればとは思う。
そんなこんなでアサンを質問攻めにしたりアサンからの質問に答えたりしていたが、自分もバスケがしたくなったので折角持ってきたボールで一緒にシュートを打つことにした。前回バスケをしてから2週間ぶりのバスケである。リングとコートの感覚はストリートコートとほとんど変わらず、それに屋根が付いたという感じである。私は1on1が大好きなので誰かとやりたかったが、コートが所々濡れいていてそれどころじゃなかったので、それは諦めた。
そうこうしているうちに時計の針は18時近くになってきたが、一向に雨は止む気配を見せず、体育館の外には大粒の雨が降り注いでいる。さすがに時間がまずいことになってきたのでそろそろ帰らなければと思っていたが、この雨では外に出ることもままならない。ティエスの宿など事前に調べていなかったので本当に困っていたところ、体育館前に一台の乗用車が止まっており、聞いてみるとどうやらダカールに帰るらしい。練習に来ていた子を迎えに来たようだ。どうにかこれでティエスのセットプラス乗り場まで乗っけて行ってもらえないかと頼んでみたところ、なんとダカールまでただで乗せて行ってくれるといから驚いた。交通費が浮くことはもちろん、セットプラスを探す手間も省けるため私としては非常に助かる。これは好意に甘えるしかないと、アサンに別れを告げ、そそくさと車に飛び乗った。
道路を流れる「川」
後で聞いてみると、この車のガソリン代をアサンが負担してくれているらしい。既に体育館を出発してしまったためガソリン代の御礼を言うことができずとても申し訳なく思いつつ、SEED、ティエスという2つのキーワードだけを持ってセットプラスに乗っただけにしては、一応練習風景を見れたし、アサンとも話せたし、自分もバスケができたし、一応収穫はあったと自己満足に浸り、帰路につけたことに安心した。7人乗りで多少窮屈だった行きと違い、4人乗りで昼より涼しく快適な道中だった。1/3くらい過ぎたところで雨も上がり、日は傾いていたがダカール市内に入った。
雨上がり。遠くの方に局地的豪雨が見える。
順調にポンピエーに向かっていたところ、私たちはそれぞれ目的地が違ったのでどうしようかと思っていたところ、運転してくれていた人に、独立広場付近まで行くバスの乗り場がもうすぐあるからそこからバスに乗ってくれと言われ、そのバスに乗ることにした。車に一緒に乗っていた少年らもバスを探してくれたが、このバスに乗れば大丈夫、としか言われずどのバス停で降りればいいかを聞き忘れたのでやや不安な心持ちだった。しかも、もうかなり日が傾いていた上、しばらくすると豪雨が再び降り始め窓の外が全く見えなくなった。さらに街も少しの間停電していたらしく明らかに街の灯りが少なかった。街中に向かっているのは間違いないようなのでまだ大丈夫と思いつつ、自分がどこにいるのか全くわからなかったので、これはやばいと本格的に焦り始めた。暗闇の中で僅かな灯りだけを手掛かりにバス停を識別できるほど街を知らない。
仕方がないので、近くにいたアラブ系の人に英語が話せることを期待して話しかけてみたが、英語が全く通じなかった。しかし、同じくあまり英語が通じない乗務員にも話しかけ、宿の隣にあるAlibabaレストランの名前を連呼してみると何かが通じたらしく、アラブ系の彼の方が首を縦に振ってフランス語か何かでしきりに私に話しかけてきた。彼は、私がフランス語はわからないという仕草をして見せてもフランス語で話すのをやめない。親切をしてくれるのは本当にありがたいがこれにはやや閉口した。本当にアリババのことが通じたのか不安で仕方なかったが、これ以外手がかりがなさそうだったし、今し方通りかかった場所が宿に割と近く見覚えがあったので、彼らを信じてみることにした。
その後少しして止まったバス停で、乗務員が、ここだ、と私に教えてくれた。外は相も変わらず豪雨。不安で仕方なかったが、私は意を決してバスから天然のシャワーの中に飛び込み、ずぶ濡れになりながらとりあえず雨宿りできる場所を探した。何となく見覚えがあるようなないような。
宿のある通りの名前がポンピドゥーということは把握していたので、近くで雨宿りをしていた人にポンピドゥー通りはどこか聞いてみたところ目の前の通りがそれだという。乗務員らを信じてよかった。バスが走ってきた通りの方角と、ポンピドゥー通りのそれへの交わり方を考え、やっと宿の場所を把握して一目散に雨の中を走りだした。すると昨日アメリカ人の同宿者が教えてくれたATMが見えてきてやっと宿に辿りついた。到着したのは20時半頃だったと思う。暗くなってしまったが無事に宿に到着できて良かった。
ここでこの日は一件落着かと思いきやそんなことはなかった。この日の夜、前日に使っていたスペックの割に高い部屋からまあまあ良い部屋に移る予定だったのだが、私が宿に帰ってくるのが遅すぎてそれが叶わなかったのだ。
私は旅の経験がそこまでないので、バックパッカー的にひどい宿がどの程度のものかはわからないが、普通の旅人なら泊まりたくないと思うであろう部屋に泊まっていた。前日まで同宿で、ギニアの農村で2年間ピースコープをやっていたアメリカ人も嫌だと言っていたから間違いないと思う。
私は自分のバックパックを前夜泊まった部屋にそのまま置いてきていたしその部屋の鍵も自分が持っていたので、帰りがあまりに遅くなれば当然部屋は変えられないだろうと思っていたが、あまりに疲れていたせいか、部屋を変えられないと実際に言われると無性に腹が立った。というか、前日は偶然快適に寝られたものの、あんな部屋に連泊したくはなく、どんな理不尽な理屈を通してでも部屋を変えたかった。ということで英語があまり通じない宿のオーナー相手にがみがみ理屈を並びたて、どうにか部屋を変えてくれと言ったが、もうそれ以外の部屋は埋まっていると言われ、万事休す。他の宿を探す気にもなれず、仕方なく、あの、部屋に泊まることにした。
こうして文字に起こしてみると本当に色々あった一日だった。ここでは、翌日のダカールからセレクンダ行きのチケットをArik Airのオフィスで取ったり、Arik Airでカードが使えないと言われて焦ってキャッシングできるATMを探したり、色々対応が必要な大事なメールが来ていて返信していたりと、午前中の出来事を全て割愛しているが、旅のロジ的に非常に非常に重要かつ精神的に疲れることをティエスに出発する前にやっていたのだ。それも含めると本当に目まぐるしかった。しかもこの日は疲れていたにもかかわらず、本当に寝付けず今までで一番苦しい夜を過ごした。今回は非常に長くなってしまったので、次回の投稿で。
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