2014年3月5日水曜日

9/18 セネガル6日目・シエラレオネ1日目 眠れない夜

泊まっていたホステルの屋上から見た朝の街並み。

この日はほとんど寝ることができず史上最悪の形で朝を迎えた。

まず部屋に一つだけあったコンセントが壊れた。前に泊まっていたグレードが高い別の部屋はタコ足があり複数プラグ使用可能だったのだが、この部屋では裏の導線むき出しのぼろいプラグしかなかった。このプラグでドライヤーを使おうとしたところ、少しの間使えたものの、バチッという音とともに止まってしまった。前に同じ宿の別の部屋で変圧器が過熱か何かでプチっという音とともに動かなくなった時は、しばらくして変圧器が冷えるまで待ってもう一度コンセントにつないでみたら動作したので、今回も回復するかもと思いしばらく時間をおいて試してみたが、時間をおいて何をさしてみても電気が来ない。完全に壊れてしまった。これで生じた問題は二つである。まずファンが回らなくなったこと、次に電子機器の充電ができなくなったこと、である。前々日はファンが使えたので部屋の見た目の割には意外と快適に寝ることができたのだが、前日は暑さの中で寝ざるを得なくなった。まあ暑いことは織り込み済みなのでそこまで問題ではないのだが。iPadには次に宿泊するシエラレオネの首都フリータウンでの宿のデータが入っていたのだが、場所がやや複雑でまだちゃんと把握しておらず、しかも電池が残り7%しかない。本当は前々日に充電することができたのだが、前日にプラグのたくさんある部屋にグレードアップできる予定だったので、部屋が変わった後にまとめて充電しようと思い何もしなかったのだ。お陰で、iPadも携帯も電池が残り僅か、という状態でシエラレオネに入らなければならなくなった。ダメ元で従業員にプラグをどうにかしてくれとお願いしてみたが、全く歯が立たない様子で、しばらく粘った後にどこかに行ってしまった。直らないのだなと悟った私はそこでプラグを諦めた。ルワンダやウガンダで泊まっていた宿では、従業員に頼めばフロントで充電してもらえたであろうが、ここにはそれができそうな場所はなさそうで、そもそもiPadは高価だし、自分の目の届かない所に必需品を放置したくない。


泊まってた部屋。一泊1,000円なり。高過ぎ。

次なる問題は就寝時に発覚した。蚊がやたら多いのだ。おそらく、前日の夕方から大雨が降り続いたからだと思われる。部屋の窓には蚊帳はなく、ガラス戸も完全には閉まらないため、蚊がいるのにほぼ窓を開け放っているのと変わらない。カーテンがかかっていたが上に隙間があって全く意味をなしていない。
暑かったので最初はパンツ一丁で寝ようとしたが、体中を蚊が狙って来てとても寝られない。仕方なく長袖長ズボンを着るが、足・手・顔と露出してる皮膚をやつらは狙ってくる。靴下を履いてみたが、ズボンと靴下の隙間を狙ってくる。やつらの根性は半端ない。ズボンを靴下で挟み、なんとか足をガードすることに成功したが、まだ手を襲ってくる。手袋は持っていなかったのでこれ以上どうすることもできない。しかもファンがなく暑い。仕方なくiPadのカバーをうちわ代りに仰いだり、蚊の音が聞こえた辺りをカバーで叩きつけたりしたが、もう破れかぶれである。蚊の音と暑さで、寝付けてもすぐ起きてしまい何回も寝たり起きたりを繰り返した。できるだけこの部屋にいる時間を短くしようと思い、隣のアリババレストランで時間を潰したりしたが、それでも1時過ぎには部屋に戻ってきて横になった。私はこれまでそれなりにアフリカでマラリアに感染し得る地域に滞在してきたが、一回もマラリアにかかったことがなかったので、マラリアにかかりにくい体なんだと思う。しかしこれだけ蚊に刺されるとさすがに怖く、こうしてマラリアに怯えつつ、ほぼ寝ることができず朝を迎えた。

ちなみにマラリアはアフリカだけでなく東南アジアでも感染リスクがある。しかも、東南アジアのマラリアは薬に耐性を持ち始めているらしく、こうしたマラリアにどうやって対処するかが問題になっているそうだ(参考:http://www.irinnews.org/report/99673/stepping-up-the-fight-against-drug-resistant-malaria-in-se-asia)。アフリカではそのようなマラリアは確認されておらず、耐性持ちのマラリアの地域的拡大を防ぐことも課題とされているらしい。

朝5時頃に起床?した私は速攻でシャワーを浴びた。ほんの少し朝日が差し込んでくる程度の明るさの中、決してきれいとは言えない共用シャワーを浴びてさっぱりした私は荷物を整理して、一旦街中に出た。
この日のマストの任務は米ドルの入手である。次に向かうシエラレオネとリベリアには使えるATMがないという前評判を各方面から聞いていたので、現金不足にならないよう細心の注意を払う必要があったからだ。VISAカードでキャッシングをする予定だったが、ここで米ドルを入手できなかったら一貫の終わりである。もう少し現金を持ってくればよかったと激しく後悔するとともに、帰国したらシティバンクの口座を作ろうと固く決意した瞬間であった。

同宿だったアメリカ人から聞いていた宿の近くのATMは24時間営業であること、その利用の仕方等は前日に既に確認済みである。満を持してキャッシングするべくカードを挿入した。が、しかし、表示をよく見ると、CFA(セーファーフラン)キャッシングしかできないと書いてあるではないか!しかもピンコードだったかパスワードだったかが求められ、それをパッと思いつかず非常に焦った。確かにATMがあるからと言ってどこでも米ドルが手に入るわけはなく、カーポベルデの空港ですら融通の利いた両替ができなかったのだ。私が甘かった。

中心地のど真ん中に宿があったお陰で、大きな銀行の店舗を見つけるのは全く苦労しなかったが、朝起きたのが早過ぎたせいでどこもあと1時間ちょっとはあかないという状況だった。私は以前に東アフリカを旅した際によく見かけ、自分もダカールに来て一度利用したEcobankが一番信頼できると思っていたので、Ecobankを探していたのだが散々歩き回っても近くに見当たらず、止むを得ず、BICISなどの銀行を使うことにした。結局1時間近く歩き回って、銀行も開店。念のため窓口で米ドルでのキャッシングが可能か確かめてみたがやはりできないとのことだったので、ATMでキャッシングしてCFAを入手してから銀行窓口で米ドルに両替えした。それなりの額だったので無事に入手できるか最後までひやひやものだったが、何とか必要額手に入れることができた。これで一応は残りの旅を続けることができる。

中心地にある独立広場。この周辺にいろいろある。

宿に戻り、次なるミッションである部屋の代金交渉にとりかかる。定価7,500CFA(約1,500円)で元々の価格も大概高いと思うが、あんな目に合わされたので、絶対1,000円以下まで値切ってやると意気込んで臨んだ。しかしなかなか1,200円以下に下がりそうにないので、とりあえず来い、見ればわかる、と言いつけて屋上にある部屋まで連れてきた。
昨日プラグを直してもらうべく従業員の兄ちゃんを呼んだ時もそうだったが、部屋の入口に昨晩豪雨があったせいで水が溜まっているのに驚いていた。私は、別に水たまりがあるからと言ってマットレスが濡れたわけでもなく全く実害がなかったのでその辺は気にしていなかったのだが、水たまりがあることで部屋の見た目は頗る悪かったので、良い交渉材料の一つになった。
ある種の床上浸水です、プラグが壊れてます、ファンを使えず相当暑かったです、おまけに窓には蚊帳がなくガラス戸も中途半端にしか閉まらないので蚊が入りたい放題です、このように色々並べ立てるとあっさり1,000円までの値下げを了承した。正直なところ、宿泊施設としての質を考えれば500円でも高いと思っていたが、立地や水回りの良さを考えると止むをえないかと思った。

こうして宿のチェックアウトも済ませ、後は空港に向かうのみとなった。シエラレオネの首都フリータウンに向かうフライトは13時頃出発だったので11時頃に空港にいれば絶対大丈夫である。フライトはガンビアの首都セレクンダ経由で、シエラレオネの首都フリータウンに現地時間16時半頃到着する予定だ。ナイジェリアのArik Airを利用予定だったが、当時はナイジェリアの航空会社が危ないとは知らず、Arik Airのウェブサイトが高質に見えたことと、航空事故のデータベースに何も事故記録が出てこなかったことを根拠に大丈夫だろうと考えていた(西アフリカから帰国後にナイジェリアの航空会社が割と大きな事故を起こしていてひやっとした。参考:http://www.bbc.com/news/world-africa-24381066)。他にAir MorocやGambia Birdがあったがフライトスケジュールが合わなかったため利用しなかった。ちなみにGambia Birdはドイツ人だったか欧米人が設立した会社で、まだ設立から間もないそうだ。

カーポベルデへの移動で散々飛行機を使ったので、フライト予定時刻の1時間前にチェックインの列に並べば十分だろうとは思っていたが、1時間ちょっと時間に余裕ができたところでダカールで何をするか特に思いつかなかった。仕方なく9時頃に、宿の人に教えてもらったバス停までバックパックを背負ってえっちらおっちら歩いて空港に向かった。バス停は、それまで来たことがなかった南の方面にあったのだが、比較的街がきれいで、この辺も探索すれば良かったと少し後悔した。

バス停の近くの様子。水色の看板がEcobank。こんなところにあったのか。

バス停近くの屋台で砂糖がたっぷり入ったセネガルコーヒーを買って一杯軽く飲みつつバスを待ち、空港に向かった。バスは意外とすいており終始座っていられた。しかし途中で事故か何かがあったらしく30分くらい全く動かず、さすがにこれには焦った。この時は交通整理の警官が出張っていたが、そうでなければみんな我先にと行こうとしてカオスになっていただろうと思う。他の国に比べて信号は守られていたと思うが、信号がないところも多く、やはり渋滞が激しい。

空港に向かうバスの中の様子。大きく、かなりの人数が乗れる。

空港に向かう道中。タクシー乗り場ではないが、車が密集していた。

地元の人の足であるバスは、大きな通りをはずれて横道に入ったり戻ったりを繰り返して空港に到着した。空港に来るのはこれで4回目でさすがに慣れてくる。さっさとバックパックをチェックインカウンターで預けると、空港の外にお昼を食べに出かけた。
魚飯を食べたかったので地元の人がやってそうなお店に行き、チェブジェンがないか聞いてみたが出てきたのはフランスパンに目玉焼きを挟んだものでがっくりした。セネガルに来て魚飯を食べられずに終わるとは...。と肩を落としながら、椅子に座ってフランスパンを食べていると、隣にいたおじさんに、これちょっと試してみなよと、何やら赤色のシャーベット状の物が入ったペットボトルをもらった。見た目通り、ペットボトルに入った飲み物を冷凍庫で凍らせたフローズンのようなもので、全く寝れず疲れが残っていた私にはこれが非常においしかった。余りにおいしかった上に安かったので、2本のフローズンを平らげ、魚飯が食べられなかったことはさておき満足して空港に戻った。

お昼を食べたレストラン。空港のすぐ近く。

フローズン。チョコなど甘いものを食べる機会がなかったのでとりわけおいしかった。

お腹は満たされたもののとにかく眠かったので、出国手続きをした後に冷房の風が直接当たるベンチに横になって1時間程寝た。予想通り、当初の出発予定時刻は守られることなく過ぎて行き、40分くらい経ったところで搭乗手続きが始まったのだが、金属製でマットもないベンチに眠気だけで長時間寝ることはできず、寝過してもシャレにならないので、出発予定時刻を過ぎた辺りから起きて待っていた。


さて、いよいよ旅の後半、シエラレオネに突入である。私が今回の旅で最も楽しみにしていたシエラレオネ、リベリア両国への出発に心が躍ると同時に、新たな国に入る時に感じるいつもの緊張感を胸にダカールを出発した。

離陸した飛行機はすぐに下降し始め、ガンビアに降り立った。ここで乗ってきた乗客は皆豪奢で、民族的にも独特な顔立ちをしていた。顔が骨ばっていて、目つきが鋭く、皮膚が一際黒い。実はダカールの宿に泊まった時にガンビア人と少し話をしたので、ガンビア人に会ったのは初めてではなかったが、最初に会った人よりかなり特徴がはっきりした顔立ちをしているように思えた。ちなみにガンビア人の中で特にビジネスに長けている部族があるらしく、その民族の顔立ちが特徴的なだけかもしれない。
ダカールで話した時のガンビア人の印象はあまり良いものではなかった。これは同宿だったアメリカ人2人も同意見である。長時間コミュニケーションをしたわけではないのでかなり偏った感想にはなってしまうが、まず、ガンビアの首都セレクンダの宿が話題になった時に外資系の安宿の話をしたら「あれはダメだ」と頭ごなしに否定していて、そこまで否定することはないのでは、と感じた。また、彼らが買ってきたマンゴーを私に食べさせてくれたのだが(もちろん折角ごちそうしてくれた好意を無駄にはできないし、私もマンゴーが好きなので喜んでいくつか頂いたが)、その後アメリカ人2人とご飯を食べに行く予定だったので「おいしかった、ありがとう!もう大丈夫だよ。」と言うと、「まだマンゴーはあるのになんで食べないんだ」と語気強く言ってきた(ガンビア人の方も私がアメリカ人と外食することを知っていた。)。敢えて短い言葉にまとめるとすれば、自己肯定的(他社否定的)、押しつけがましい、という印象である。ただ、繰り返すようだが、ほんの30分くらい話しただけの印象で、他にもっと良い面がたくさんあるに違いないので一面的にガンビア人を捉えないようにして頂ければ幸いである。ちなみに彼らは学校の教師で、ダカールに教師の研修か何かで来ていたそうだ。



セレクンダの空港をすぐに出発し、飛行機はセネガル南部の都市Ziguinchorジガンショール、ギニアビサウの上空を通過していった。一番最初の計画ではセネガルからシエラレオネまで陸路で下る予定だったので、この辺りがどのような地域なのかには興味があったので上空から覗いてみた。
この辺りは降水量が多い低湿地帯なようで、蛇行した川がいくつも流れており、非常に特徴的な地形をしていた。
ちなみにギニアビサウはポルトガルが旧宗主国で、沖合の島国カーポベルデと同じである。しかし、民主制をほぼ確立しつつあるカーポベルデと対照的に、ギニアビサウはクーデタや内戦で政情不安定が続いているそうで、どうしてこのような違いが生まれたのか、個人的には非常に興味がある。

ジガンショールを通過して少しした辺りの地形。入り組んだ水辺が広がっている。

複雑な地形。雨季の終わりの時期だったため水位が高かったのかもしれない。

ギニアビサウの首都ビサウを上空から。

特に降水量が多いギニアビサウを過ぎ、しばらくするとギニアの首都コナクリが見えてきた。議会選挙を控え治安が悪化していたため、今回は訪問を断念した都市である。コナクリは一国の首都なのに頗る貧しいことで有名という話を聞いていたので、一度自分の目で見てみたいというのが訪問希望の動機だが、安全第一である。

ギニアの首都コナクリ。海に突き出た岬に位置するのが特徴的。

コナクリ上空。できればここも訪れたかった。

飛行機は17時過ぎ頃にフリータウンに着陸した。フリータウンは海沿いに位置していたが海岸線近くまで山が迫った丘の街だった。Lungi空港は街とは河川を跨いだ反対側の海岸の丘の上にあった。
思った通り、滑走路から見えた空港は古く、これから一週間のシエラレオネ滞在への不安がやや募ったが、事前にオンラインで申請した書類を見せてイミグレを通過し、空港の外に出た。
空港からフリータウンの中心地までは小型フェリーを使って海を渡るのが主流である。このことは様々なソースから聞いていたため、とにかく小型フェリーに乗ればOKだとは重々承知していたが、ただでさえ到着が1時間近く遅れたのに、今まで訪れた途上国の中でも貧しいシエラレオネという国の交通機関で明るいうちに宿まで辿りつけるのか、依然として不安であった。

Lungi空港のターミナル。

空港から出ると、どこの空港にもいるようなタクシー等の勧誘をされるがうっとうしいので全て無視する。しかしフェリー乗り場の場所を聞かなければならないので、とりあえず絡まれる心配のない外人に尋ねてみようと思い、近くにいたアジア系の人に声をかけてみたのだが、ここで思ってもみない経験をした。
相手は中国人で、私が声をかけてフェリーについて質問するなり、「お前は日本人か?」と尋ねてきた。私が「そうだ。」と答えると、なんと、「じゃあ教えてやらない」と言うではないか。ここは日本と中国とは遠く離れたシエラレオネで、日中関係とか何ら関係がない場所で、普通の旅人であればお互いに助け合いそうなところにこんなことを言われたので、少しイラッとしたがそれ以上に呆れて言葉が出なくなってしまった。こんな所でも反日感情に接することになったのが少し残念だった。
しかし、その中国人をガイドしており私の話を聞いていたシエラレオネ人が私にフェリーについて教えてくれたので、私は目的を達成できた。隣にいた中国人は途中からバツが悪くなったらしく下を向いていた。こうして私は少し不快な思いをしたものの、無事にフェリーのチケットを買うことができた。

空港の近くにあるフェリーの乗車券販売所。

空港の近くの様子。木造りの家が多かった。

フェリーは40米ドルとかなりお高いが、これを利用するほかはない。前は100米ドルでヘリコプターを使うこともあったそうだが、墜落事故があったとかで今は運航されていないらしい。空港からシャトルバスで海岸まで降りて行き、フェリーが到着するのを波止場で待った。既に17時を過ぎており、西から差し込んでくる夕日が非常にきれいであった。利用者はほぼ全員白人で、援助関係者と見て間違いないと思う。

夕日が美しい。

両側に泊まっているのが、これから乗るフェリー。

フェリーは小さく、乗客はライフベストを着なければならない。

比較的穏やかな海を恐らく時速60km程で順調に進み、20分程かかって対岸に到着した。知り合いの方は、海が荒れていてフェリーが揺れて非常に辛かったと言っていたが、私は風を切って大西洋の端っこを走るのが非常に爽快だった。

対岸の半島のほぼ先端にある波止場には、到着した人たちの迎えの車が何台も止まっていた。援助関係者はたいていランドクルーザーを自分で運転したり、またはドライバーを機関が雇っていたりして、タクシー等を使うことはほとんどない。こうした車に乗って快適に移動して行く人たちを羨ましく思いつつ、私はタクシーを探すことにした。オカダ(シエラレオネではバイタクのことをオカダという)は危険だという話を聞いていたので、できれば乗りたくなかったが、もうかなり陽は落ち暗くなってきておりバックパックを背負って暗闇をさまようのは避けたかったので、止むを得ず通りかかったオカダを使うことにした。

途上国では住所という概念が希薄なように思われるが、宿泊予定だった宿は住所らしい住所がとりわけないところにあった。そのため宿の案内に書いてあった道案内だけを頼りに何とか宿に向かうしかなかった。
シエラレオネで場所を示す時によく使われたのが、交差点名で、-- Junctionとか、... Crossとか、主要道路のそれに名前がつけられていた。宿の近くにあるのはCongo Crossで最初の目印である。13kg程度のバックパックと80kg弱の大の男を乗せたバイクは、夕闇の中、波止場近くの一応の舗装道路を走り、えっちらおっちら緩やかな丘を登る。最初は細めだった道路も走るにつれ交通量の多い道路に合流し、周囲はやっと街らしい雰囲気になってきた。オカダドライバーにここだと言われて到着したCongo Crossは思ったより近かった。ちゃんと歩道も整備された主要道路の交差点だったが、宿の案内に従ってそこから脇道に逸れると、一気にガタガタの未舗装の細い道になり、沿道には鉄板やレンガ、木材で建てた平屋が立ち並ぶ地元民の世界が広がっていた。こんなところに自分が目指している宿があるのかと不安にさせるそんな道だった。それでも最初に入った道は小さな商店街のようで人通りもそれなりにあったが、ガタガタとオカダに揺られながら道を下って行くと、さらに灯りも人通りも少なくなり、ますます不安が募るばかりだった。オカダドライバーも自信がない様子だったが、2,3分も走ると、「ここだ」と言って止まった。しかし、到着した場所には宿らしき建物は見当たらなかった。この頃は完全に日が沈み辺りは真っ暗である。そんなはずはないと思い、もう一度案内通りに道を辿ってみるようドライバーに頼みつつ、自分はフリータウン在住で宿を紹介して頂いた日本人の方や宿の人に電話し場所の手掛かりを探った。宿の人はまだしも、19時頃にいきなり焦った様子で電話をしてくるなど相手の方にとっては迷惑だったに違いない。普段であれば私はそんなことは絶対にしないが、この時はそれだけ焦っていた。
宿の案内と電話で得た手掛かりに従って再びバイクで走ったが、やはり同じ場所に辿りついた。どういうことなのかよく事態を飲み込めなかったが、宿の人に再び電話をすると、迎えに出てきてくれ、やっと宿に辿りつくことができた。宿は重厚で背の高い門があって、私の立っていた場所の隣にあったにも拘らず建物のシルエットすら確認できなかったのだ。何はともあれ無事に宿に辿りつけて安堵した。オカダドライバーの名前と電話番号を一応控え、15,000レオーネ(シエラレオネの通貨単位、略称はSLL。1SLL=0.02円)という考えられないほどの高値を支払、宿に入った。

宿のスタッフは非常に親切で、宿の周辺の案内もその日のうちに少ししてくれた。宿はやや高めだったがその分設備がよく、ダカールの宿とは比べ物にならなかったので一人で感動していた。温水シャワーが使えないのが玉に瑕だったがやむを得ない。
荷物を置くと、宿の近くのお店でソーダを飲み、ネットを使いに徒歩10分程のところにある東南アジア料理屋のOasisオアシスに行った。ついさっきまで暗闇を怖がっていたが、宿の人に夜でも荷物管理をしっかりすれば出歩いても大丈夫だと言われたので外出したのだ。
ネットを使ってから部屋に戻ってすぐに寝た。というより、気付いたら外着のままベッドの上に倒れこんで寝ていた。これから一週間のシエラレオネ滞在が始まる。

2014年2月24日月曜日

9/17 セネガル5日目 日本とセネガルの意外なつながり

おそらくセネガルと聞いて、多くの日本人が最初に思い浮かべるとしたらサッカーだと思う。2002年に日本で開催されたワールドカップ辺りでやや話題になった記憶があるからだ。また、少しセネガルに詳しくてセネガルの首都がダカールであるということを知っていれば、パリ=ダカールラリーが想起されるのではないかと思う。ただ、ダカールラリーも諸事情で今やパリやダカールのある大陸ですら開催されていないのだから*、セネガルとはどんな国なのかますますイメージがつかない。
しかし、バスケットボールの高校の全国大会を見たことがある人なら、セネガルというと、一部の全国レベルの強豪校が必ず一人連れている黒人の出身国ということを思いつくような気がする。中学以来一応バスケを続けている私はその部類だった。
そこで、今回の私のセネガル滞在の目的の一つとして、一体どうやって遥々セネガルから日本まで高校生がバスケをしに来るのか、その実態を少しでも見る、ということを掲げていた。
*セネガル北部にあるモーリタニアの政情不安定化によるものだそうです。参考:http://www.dakar.com/dakar/2014/us/route.html




ダカールのタクシー乗り場Pompie、ポンピエーには、乗客を待つ白いプジョーが無数にどこまでも並んでおり、砂っぽい大地に青い空から強い日差しが差し込んできていた。プジョーの間を、自分の目的地に行くプジョーを探す乗客たちや乗客を各々の目的地に行くプジョーのところまで案内する若者たち、乗客相手にぱちもんのイヤホンからベルトまでどこで見つけたのかわからないものを売る売り子たちが行き来しており、多くのアフリカのバス乗り場などでそうであるように、そこは混沌としていた。夜になれば、無数の車のライトが暗闇の中でナウシカのオウムばりに赤く黄色く光っているのだろうか。カンパラのバス乗り場の光景を思い浮かべながらそんなことを思った。宿からタクシーで来た自分の目に飛び込んできたその光景は、『これぞアフリカ』と言わんばかりのものだった。
しかしよく見ると、誰が読むのかわからないような小さな看板に行き先が記されており、車は意外と規則正しく並んでいる。乗客も、自分の目的地にたどり着くプジョーの乗り場を把握しているらしい。タクシーから降りた私にすぐさま話しかけてきた青年にThies、ティエスと告げると、何の迷いもなく乗り場まで連れて行ってくれた。



セットプラス乗り場の様子。止めてある車の99%がプジョー車。


撮影角度のせいでわかりにくいが、Thiesの文字が見える。



セットプラスとはフランス語でセット「7」とプラス「場所」という意味で、要は7人乗りの車のことだ。行き先の同じ人を7人集めてさぁ出発、極めて単純である。ティエスまでの運賃は1,500フランだった。セットプラスはセネガルの長距離移動の主な交通手段で、地元の人がたくさん利用していた。価格も手ごろでバックパッカーにとっても欠かすことのできない交通手段だ。
アフリカの大きなバス乗り場などでそうであるように、これから短い旅に出る乗客を相手に売る飲み物や食べ物を担いで歩く売り子、ベルトや財布などの売り子、乗客の案内人、そんな人々でごった返している。こんなありふれた光景の中で、一つ西アフリカに特徴的なのが袋水である。その名の通り、比較的丈夫なビニール袋に400mlの水が入っているだけの簡単なものだ。だいたいかなりの安値で売られており、どこで冷やしたのか袋から結露の水が滴っていることもあり、袋の端っこを噛みちぎって、そこから少しずつ水を飲むのだ。地元のレストラン等でも、コップ一杯の水の代わりに、コップに袋水をぽんと入れて出してくれる。少なくともシエラレオネとリベリアではそうだった。日本的に言えば500mlペットボトルの代わりで、どこでも安心して飲むことができる生命線である。私は長距離の移動中などでお世話になった。



ティエスとダカールの位置関係。だいたい100kmくらい。


予定通りガンビアのビザが取得できていれば、セットプラスに乗って片道6時間でセネガルとガンビアの国境まで行く予定であったが、ビザを取得できずカーポヴェルデに行ったのでそれができなくなった。バックパッカーとしては空路にばかり頼ってはいけないと思っていたので、どこかでセットプラスに乗りたいと思っていたが、ティエスへ行くのに利用できて良かった。ダカールに来たのに街の店も陸路の移動手段もよく知らないというのでは恥ずかしい。


ティエスはダカールから近いせいか、私は1人目の乗客だったがすぐに7人集まった。人が集まってきたところで係りの人?が乗車賃を集め始める。私は5,000フランしか持っておらず嫌な顔をされたが、同乗者の人に両替してもらって支払うことができた。セネガルの人はみんな親切だ。前にバスに乗った時も、車掌さんから遠い席の人が乗車賃を支払うのに乗客みんなで小銭を渡してあげていた。
「セットプラスは速いよ!ティエスだったら2時間くらいで着くんじゃないかな?」
同宿だったアメリカ人の言葉の通り、最初はダカール市内を順調にとばしていた。しかし、途中、工事で車線が減っていたため、非常に混雑していた。スタックしている間1時間ほど、周りに汚い排ガスを出すトラックがいるわ、窓を閉めると暑いわ、やや八方塞であった。ダカールの渋滞は合流か事故のいずれかのようだが、最初は渋滞の原因がわからなかったため少し辛かった。渋滞を抜けた後はスカスカで快調に飛ばしてティエスに向かった。
正午ごろにダカールを出発し、14時過ぎにティエスに到着した。ダカールの乗り場ほどではないが、ティエスの降り場も無秩序であった。袋水のビニールや果物の皮などがその辺に無造作に捨てられており、汚い水たまりがいくつもあった。



ティエスに向かう途中の道。晴れていて気持ちがよい。


私がティエスという普通の観光客ではまず行かないような町に来たのは、冒頭に述べたような経緯があったからだ。西アフリカ渡航前にネットで調べた限り、このティエスにSEED(http://www.seedproject.org/)というバスケ養成プロジェクトの施設があるということだけわかり、とりあえずその町に来てみた、というわけである。それ以外の情報は何もなかったので、その場でどうにかしようというノープランでティエスまで行ってきた。
とりあえずSEEDという名前だけわかっていたので、セットプラス降り場にいた若者に聞いてみることにした。すると、いきなり知っているかもしれないと言い出すではないか。が、その若者のフランス語が全くわからず、書いてもらった地図で合っているのか不安しか残らない。しかし他に手がかりもないため、仕方なくその地図に従って行ってみることにした。

ダカールが雨季でも砂っぽかったように、ティエスも緑は少なかった。日差しを遮るような大きな木は幹線道路にしかなく、そこを外れると昼間の強い日差しが降り注ぎ、朝からいろいろロジ関係の作業に追われており昼ごはんを食べていなかった私はやる気を削がれた。

先ほどの地図ではあまりに頼りないので(写真でも撮れば良かった...)もう少し手がかりが欲しいと思い、道行く高校生くらいの少年少女に声をかけるも全然知らないと言われる。やはりなかなか手がかりは手に入らないとげんなりした私であったが、次に声をかけた大学生が当たりであった。私の歩いていた道沿いに、国旗の立ったいかにも公共施設っぽい建物があったので、次なるヒントを求めて中に入ってみた。すると、すれ違いで出てきた長身の男性がいたので、この辺でバスケ選手を養成している機関がないかと聞いてみたところ、バスケだけじゃなくサッカー選手も養成しているCNEPSという公的機関がありSEEDはその一環だと教えてくれた。これだ!非常に正確にしかも丁寧に教えてくれた若者の名は残念ながら忘れてしまったが、感謝の意を伝えて再び歩き始める。ありがとう!
彼と会った場所からさらに15分ほど歩いたところに、明らかにサッカーグラウンドと思われるものが見えてきた。道路の反対側には体育館らしきものも見える。着いた!最初はどうなることかと思ったが、最終的にはティエスに着いてから30分ほどで着くことができた。意外と簡単に着いて拍子抜けした。



CNEPSの門。道を挟んで両側に施設がある。

CNEPSの間にある道。ここだけきれいに舗装されていたような気がする。


辿りついたのはいいものの、練習がなかったら意味がない。そこで恐る恐る門にいたセキュリティガードに、今日は練習があるか聞いてみたところ、16時から開始予定だという。現在15時。まだ時間があるので、昼ごはんでも食べるべくその辺をふらふら散歩することにした。といっても門の横にちょっとしたお店がある他何も見当たらなかったのでどこで昼ごはんを食べられるという当ても特になかったのだが。



黄土色の土と草木の緑、空の水色のコントラストがいかにも西アフリカである。


セットプラス乗り場から来た道をそのままCNEPSを通り過ぎて歩くとすぐに未舗装の道路になり、両側に地元の人の家と思われる建物が並ぶようになった。私が長期滞在していたケニアの田舎町と比べてみると、古くてもちゃんと家が建っているしそこまで経済的に貧しいわけではないんだろうなとなんとなく思った。ダカールからそう遠く離れているわけではないし、ティエス自体それなりの町らしいので、少し中心地から外れたくらいでは風景は変わらないのかもしれない。
目的のお昼ご飯である。私はセネガル滞在5日目(実際の滞在時間はカーポヴェルデへの移動時間があるのでもっと短いが)にして、まだセネガルのある地元飯にありつけていなかった。チェブジェンである。ご飯に焼き魚を乗っけた簡単な料理で、日本でいうところの牛丼みたいなものかもしれない。玉ねぎの炒め物であるヤッサは2回食べたのに、チェブジェンは未体験であった。時計は15時を回り、地元の人向けのレストランらしきものすら見当たらないエリアでチェブジェンに拘るのはあまり頭が良くないとは思ったが、地元飯なのでどこかで食べられるだろうと思いそれを探し求めていた。
ふらふらしていると、道沿いに小さな屋台があり何か料理をしていたので、お昼御飯を調達するべく声をかけてみた。見たところチャパティーらしきものは作っていたが魚は見当たらなかった。すると、お昼を食べたいのならついてきなよということで、そこにいた人が連れて来てくれたのが、結局CNEPSの前にあったお店であった。
やはりセネガルの人は親切だった。私が、まだお昼を食べてなくてお腹すいてるんだ~、と言うと、お店の人はお店の奥に案内してくれ、恐らく自分たちが食べていたのであろうご飯を私にくれるというのだ。朝食もまともに食っておらず、いろいろあって金欠だった私にとってこれほど嬉しいことはない。ありがたく、ありがたく、ご飯を頂いた。味付けされたライスと野菜は日本人の口に合い、とってもおいしく、おまけに、私が食べ終わるとジュースまで持って来てくれた。最初は衛生的に大丈夫かやや不安だったが、しばらくたってもお腹が痛くなることもなく、ご好意を無駄にせずに済んだ。本当にありがとうございました。

旅の一番の魅力とは何か。それはやはり地元の人と話をしたり、交流できることだと思う。私はそんなにコミュニケーションをとるのが上手くないが、ふとした機会に人の暖かみに触れることができると本当に心が満たされる。この点では今回の旅は前回東アフリカを回った際より遥かに充実した旅になった。


ご馳走してくれたご飯。煮込んだキャベツやトマトとお米を炒めたもの。とてもおしいかった!

ご飯をご馳走してくれたお店の人たち。明るくでとてもいい人たちだった。


こうして腹ごしらえをすることができたので、練習が始まるまでCNEPSの前で待っていることにした。その間、店の前にたむろしていた人と話をしていたが、近くにアメリカのピースコープの人が来ているという。もし会えるのなら話をしてみたいと思ったが、ここから近くにいるようではなく、その日は会えなさそうだったのでやむなく諦めた。

時刻は16時に近付き、だんだん少年少女たちが集まり始めてきた。ダカールで街ゆく人を見ていてもバスケをしていそうな出で立ちの人を見たことがなかったので、どんな子たちが参加しているのだろうと思っていたが、みんなそれぞれバスケウェアを着てバッシュを履き、いかにもな子どもたちばかりだった。アフリカに来ると全てが日本と異なるので、日本人と同じようなウェアを着てバッシュを履いている姿を見るだけで親近感を覚えて少し嬉しくなった。みんな、私を見ると物珍しそうに近寄ってきて、
「どこから来たんだ?」
「バスケをするのか?」
「俺のシュート見てくれよ!!」
など口々に話しかけてきた。
(私)「君たち何歳?」
(A)「17歳!」
(私)「そうだよね、背高いし大人っぽいもんね!」
(B)「ウソだ、Aは14だろうが!」
(私)「え、どっちどっちw」
体育館が開くまでの時間、みんなでワイワイ楽しそうに騒いでいて、日本の中高生を見ているようでこちらも楽しかった。私はバスケに参加するつもりでボールを持って来ていたので、それで一緒に遊んだりして戯れていた。持って来ていたボールは、7,8年前に買ったエナメルボールでそれなりに使いこんではいたし新しくはなかったが、みんな良いボールだと言ってとても欲しがっていた。後で練習で使っているボールを見たが、ラバーでそんなに質が悪いとは思わず、練習するのに数が足りないというわけでもなさそうだった。恐らく皆、自分のボールとして欲しいと思ったのだろう。
そうこうしているうちに最初は10人くらいだったのがどんどん増え、最終的には60人くらいにはなっていた。


体育館が開くのを待っている子どもたち。


体育館の入り口。外見よりは質のいいコートとリングだったと思う。


*以下に書くことは、バスケの一素人に過ぎない私の体験に基づく主観であることをご了承頂けると幸いです。

体育館はNBAとNIKEの支援で建設されたもので、屋内ではあったがラバーのコートだった。公式サイズのコートを1面+半面とれる大きさで、リングは3つ設置されていた。ボールはNIKEから寄付されたものと思われるラバーのボールで50個ほどあったと思う。
この日の練習はエリート選手育成プロジェクトのトレーニングではなく、一般開放的に公募して集まった子ども達を対象に行っている数日間の合宿練習だったようで、いかにも普段から練習をしているとても上手い子から初心者に近い子まで、様々なレベルの子が参加していた。年齢層は12歳くらいから19歳までで、男女混合で初心者と経験者の2つのグループに分かれて練習していた。この日、練習を取り仕切っていたのはセネガルナショナルチームのアシスタントコーチのアサンで、もう一人のアシスタントと一緒に指導していた。

ちなみに体育館内の写真は残念ながらない。アサンに何度も撮らせてくれと頼んだのだが、スポンサーの関係で写真内にロゴが入ったりすると困るから、ということで、じゃあロゴが入らないようにするからとかなり粘ってみたが、それでも申し訳ないけど控えてくれ、と言われたので止むなく諦めたという次第である。

コートの周囲を10分程ランニングしてから簡単にストレッチをしてアップを済ませた後、経験者グループと初心者グループに分かれ、経験者グループはアサンの指導のもと、ハーフコートでミニコーンを使ったドリブルとシュートのドリルを何種類かひたすら練習していた。初心者グループはもう一人のアシスタントのもと、4チームほどに分かれてずっとゲームをしていた。

経験者チームの練習を遠目に見ていたが、背が高くて軽々ダンクをしたり、背が低くても身のこなしがしなやかでハンドリングも良く、やはり運動能力が高いという印象だった。また、皆だいたいドリブルが上手く、レイアップなどゴール下近辺のシュートもかなり器用だと思ったが、外角のシュートはあまり上手くないように見えた。ミニコーンを置いたドリルではミドルポストくらいの距離からのシュートも練習していたが、ドリブルやゴール下の技術に比べると明らかに相対的に精度が低かったからだ。原因を考えてみたが、恐らくちゃんとしたリングやコートが少ない練習環境では外角シュートが練習できず、ゴール下近辺のシュートや、リングの有無に関わらずできるドリブルの練習ばかりに偏ってしまうことかと思われた。後でアサンから聞いた話では、セネガル全体で、私が見たコートを含めて屋内コートは確か4つしかないということだった。みんなバスケが好きで、高い運動能力を持って練習に取り組んでいるのに練習環境が不十分でポテンシャルを発揮できないのはとても残念なことだと思わずにはいられなかった。

そんなこんなで16時過ぎに練習が始まって45分ほど練習を見ていたが、外で雨が降り出した。すると、体育館の屋根から雨漏りし始め、豪雨で体育館の中に小さな水たまりができてしまい、練習が中断された。私は、ダカールの宿に暗くなる前に戻るつもりだったので、17時には体育館を出て19時頃にはポンピエーに着く予定だった。しかし、もう少し練習を見ていたかったし、何より豪雨で足止めされてしまったので、今しばらく体育館にいることにいた。コーチングしていたアサンも、水たまりはどうすることもできず、暇を持て余していたので少し話をした。(ちなみに彼とは英語で話すことができた。)

2004年から2007年頃まで日本へのリクルーティングを担当しており、日本には5回程行ったことがあるそうだ。キュウシュウと言っていたので福岡第一や延岡学園などのことだろうと思う。私は2007年頃に東京の八王子にいたニャーンのプレーを見たことがあったので、凄く活躍していたねと振ると、今彼はアメリカでプレーしていて将来に期待が持てるんだ、とアサンは嬉しそうに話していた。
今シーズンからNBA選手になったセネガル人が2人いるそうで、1人は今はミネソタ・ティンバーウルブズにいるGorgul Dieng選手(http://www.nba.com/playerfile/gorgui_dieng/)で、もう一人は私の知識不足でわからない。Diengは大学からアメリカでプレーしているようで、去年のNCAAのBig East Championship GameにてLouisvilleでプレーしているのを見た。運動神経が良く、NBAのハイライトにも迫力あるブロックで登場している。私の知る限り、過去にもう一人セネガル人選手がいて、2006年NBAファイナルでダラス・マーべリックスのセンターをしていたDesagana Diop(ジョップ)選手である。あんまり出場時間は与えられていなかったが、やはりディフェンス面で貢献していたような記憶がある。ちなみにジョップはフリースローがあまり上手くなく、珍プレイ集でフリースローをエアーボールしているところが動画になっていたりするが、先ほど書いた事情等を考慮すると気の毒な気もする。
2013年9月当時、セネガルは2014年のワールドカップ出場をかけてFIBA Africaでナイジェリアやアンゴラ等と試合をしており(確か同時期にヨーロッパと南米でも予選が行われていたはず)、アサンもセネガル代表に同行して、コートジボワールまで遠征に行っていたそうだ。どこに勝ったかは忘れてしまったが、とにかく予選を勝ち抜いて3位としてワールドカップ出場権を獲得したんだ、とこれも嬉しそうに言っていた。2012年ロンドン五輪ではチュニジア、ナイジェリアが出ていたが、セネガルは国際大会ではあまり聞いたことがなかった気がしたので、その話を聞いて嬉しくなった。
毎年25人程の選手でシーズンにトレーニングを行っているそうで、その中で優れた技術を持っている子は欧米や日本に留学できるらしい。メンバーは恐らく毎年固定されており、留学に行ったり、留学できなくともそのまま国内で卒業して行ったりしてできた空席に新入メンバーをリクルーティングしているそうだ。外国に出て行くのは毎年2,3人だそうで、日本に来ているセネガル人もその枠。

アサンはバスケ選手の育成に対して日本から何かしらの形でサポートを受けたいと話していた。日本人にとってセネガルはどんな国なのか、セネガルは日本人にとってビジネスをするのに良い環か、など私に聞いてきた。普通にアフリカを歩いていて地元の人と話をすれば日本について聞かれるのは全く珍しくない。そしてこうした会話には概して、日本人は裕福でアフリカにいる自分たちとは違う存在だ、とか自分たちは貧しく日本人とは立っているステージが違うといった語感が程度の差はあれ含まれているように思われる。だから自分たちに物を恵んでくれとかそんなことは言わないが、とにかく立場の違いが所与のものとしてあるというある種の偏見がある気がする。しかし、アサンの質問にそのような語感はなかった。ナショナルチームのアシスタントコーチに選ばれるくらいだから頭が切れるのだろうし、日本を何度も訪れたり海外に遠征したりしてその国の人と話をしたり、母国を離れて客観的に考える機会が多かったりすることが要因かと思ったが、恐らくはセネガルのチームを強くするにはどうしたら良いかを真剣に考えているからだという結論に今のところ至っている。しっかり練習をしてチームを強くしていきたいが、バスケの練習をするに十分な環境がなく、それを整える資金も不足している中で、どうすれば日本から支援を受けられるか、そのインセンティブが何かをチーム運営側の人間の一人として考えているのだろうな、と思う。
アサンの質問に対しては、やはりセネガルは物理的に遠いし、日本人の認知度は高くないと正直に答えておいた。アサンも客観的な意見が欲しい、とちゃんと言っていたのでそこは気遣いすることなく答えることができた。
アサンが日本からサポートを受けたいと言っていたのは、セネガル側から選手を送り出しているのにその対価が小さいということなのかと感じた。私は選手の受け入れについて日本の高校とセネガルのCNEPSの間でどのような契約が交わされているか知らないので、本当に対価が小さいのかどうか恥ずかしながらわからない。確かアサンは自分たちの渡航費も自費だと言っていた気がするので、アサンの話を聞いている限りではあまり対等な関係ではないなと思う。私も一人の日本人バスケプレーヤーとして素人ながら何か貢献したいと思いはするものの未だ何もできていないので、何か大きなことを言える立場には全くないと自覚していつつも、日本の高校側も単に留学してきた選手にバスケの将来を提供するだけでなく本国の方にも何かしらの形で支援できればとは思う。

そんなこんなでアサンを質問攻めにしたりアサンからの質問に答えたりしていたが、自分もバスケがしたくなったので折角持ってきたボールで一緒にシュートを打つことにした。前回バスケをしてから2週間ぶりのバスケである。リングとコートの感覚はストリートコートとほとんど変わらず、それに屋根が付いたという感じである。私は1on1が大好きなので誰かとやりたかったが、コートが所々濡れいていてそれどころじゃなかったので、それは諦めた。



そうこうしているうちに時計の針は18時近くになってきたが、一向に雨は止む気配を見せず、体育館の外には大粒の雨が降り注いでいる。さすがに時間がまずいことになってきたのでそろそろ帰らなければと思っていたが、この雨では外に出ることもままならない。ティエスの宿など事前に調べていなかったので本当に困っていたところ、体育館前に一台の乗用車が止まっており、聞いてみるとどうやらダカールに帰るらしい。練習に来ていた子を迎えに来たようだ。どうにかこれでティエスのセットプラス乗り場まで乗っけて行ってもらえないかと頼んでみたところ、なんとダカールまでただで乗せて行ってくれるといから驚いた。交通費が浮くことはもちろん、セットプラスを探す手間も省けるため私としては非常に助かる。これは好意に甘えるしかないと、アサンに別れを告げ、そそくさと車に飛び乗った。


道路を流れる「川」


後で聞いてみると、この車のガソリン代をアサンが負担してくれているらしい。既に体育館を出発してしまったためガソリン代の御礼を言うことができずとても申し訳なく思いつつ、SEED、ティエスという2つのキーワードだけを持ってセットプラスに乗っただけにしては、一応練習風景を見れたし、アサンとも話せたし、自分もバスケができたし、一応収穫はあったと自己満足に浸り、帰路につけたことに安心した。7人乗りで多少窮屈だった行きと違い、4人乗りで昼より涼しく快適な道中だった。1/3くらい過ぎたところで雨も上がり、日は傾いていたがダカール市内に入った。


雨上がり。遠くの方に局地的豪雨が見える。


順調にポンピエーに向かっていたところ、私たちはそれぞれ目的地が違ったのでどうしようかと思っていたところ、運転してくれていた人に、独立広場付近まで行くバスの乗り場がもうすぐあるからそこからバスに乗ってくれと言われ、そのバスに乗ることにした。車に一緒に乗っていた少年らもバスを探してくれたが、このバスに乗れば大丈夫、としか言われずどのバス停で降りればいいかを聞き忘れたのでやや不安な心持ちだった。しかも、もうかなり日が傾いていた上、しばらくすると豪雨が再び降り始め窓の外が全く見えなくなった。さらに街も少しの間停電していたらしく明らかに街の灯りが少なかった。街中に向かっているのは間違いないようなのでまだ大丈夫と思いつつ、自分がどこにいるのか全くわからなかったので、これはやばいと本格的に焦り始めた。暗闇の中で僅かな灯りだけを手掛かりにバス停を識別できるほど街を知らない。
仕方がないので、近くにいたアラブ系の人に英語が話せることを期待して話しかけてみたが、英語が全く通じなかった。しかし、同じくあまり英語が通じない乗務員にも話しかけ、宿の隣にあるAlibabaレストランの名前を連呼してみると何かが通じたらしく、アラブ系の彼の方が首を縦に振ってフランス語か何かでしきりに私に話しかけてきた。彼は、私がフランス語はわからないという仕草をして見せてもフランス語で話すのをやめない。親切をしてくれるのは本当にありがたいがこれにはやや閉口した。本当にアリババのことが通じたのか不安で仕方なかったが、これ以外手がかりがなさそうだったし、今し方通りかかった場所が宿に割と近く見覚えがあったので、彼らを信じてみることにした。
その後少しして止まったバス停で、乗務員が、ここだ、と私に教えてくれた。外は相も変わらず豪雨。不安で仕方なかったが、私は意を決してバスから天然のシャワーの中に飛び込み、ずぶ濡れになりながらとりあえず雨宿りできる場所を探した。何となく見覚えがあるようなないような。
宿のある通りの名前がポンピドゥーということは把握していたので、近くで雨宿りをしていた人にポンピドゥー通りはどこか聞いてみたところ目の前の通りがそれだという。乗務員らを信じてよかった。バスが走ってきた通りの方角と、ポンピドゥー通りのそれへの交わり方を考え、やっと宿の場所を把握して一目散に雨の中を走りだした。すると昨日アメリカ人の同宿者が教えてくれたATMが見えてきてやっと宿に辿りついた。到着したのは20時半頃だったと思う。暗くなってしまったが無事に宿に到着できて良かった。

ここでこの日は一件落着かと思いきやそんなことはなかった。この日の夜、前日に使っていたスペックの割に高い部屋からまあまあ良い部屋に移る予定だったのだが、私が宿に帰ってくるのが遅すぎてそれが叶わなかったのだ。
私は旅の経験がそこまでないので、バックパッカー的にひどい宿がどの程度のものかはわからないが、普通の旅人なら泊まりたくないと思うであろう部屋に泊まっていた。前日まで同宿で、ギニアの農村で2年間ピースコープをやっていたアメリカ人も嫌だと言っていたから間違いないと思う。
私は自分のバックパックを前夜泊まった部屋にそのまま置いてきていたしその部屋の鍵も自分が持っていたので、帰りがあまりに遅くなれば当然部屋は変えられないだろうと思っていたが、あまりに疲れていたせいか、部屋を変えられないと実際に言われると無性に腹が立った。というか、前日は偶然快適に寝られたものの、あんな部屋に連泊したくはなく、どんな理不尽な理屈を通してでも部屋を変えたかった。ということで英語があまり通じない宿のオーナー相手にがみがみ理屈を並びたて、どうにか部屋を変えてくれと言ったが、もうそれ以外の部屋は埋まっていると言われ、万事休す。他の宿を探す気にもなれず、仕方なく、あの、部屋に泊まることにした。



こうして文字に起こしてみると本当に色々あった一日だった。ここでは、翌日のダカールからセレクンダ行きのチケットをArik Airのオフィスで取ったり、Arik Airでカードが使えないと言われて焦ってキャッシングできるATMを探したり、色々対応が必要な大事なメールが来ていて返信していたりと、午前中の出来事を全て割愛しているが、旅のロジ的に非常に非常に重要かつ精神的に疲れることをティエスに出発する前にやっていたのだ。それも含めると本当に目まぐるしかった。しかもこの日は疲れていたにもかかわらず、本当に寝付けず今までで一番苦しい夜を過ごした。今回は非常に長くなってしまったので、次回の投稿で。

2013年11月3日日曜日

カーポヴェルデ ~日本ではほとんど知られていないアフリカの優等生~

どうも。日本はだいぶ涼しくなってきましたね。
今回は、先日訪れた国がどんな国なのかを知ろう、そんな趣旨の投稿です。行ったからには、気になるので。データと実感とを照らし合わせる、そんな作業ができたらいいなと思います。
かなり長くなってしまったので一回で読み切るには負担が重いかと思いますが、時間のある時にちらちら読んで頂ければ嬉しいです。



◆基本データ

1. 自然環境
[気候] 乾燥気候(年間降水量69.5mm、最低気温2月21.1℃、最高気温9月26.6℃)
[資源] 特になし

2. 社会
[人口] 494,401人
[首都] Praia、プライア
[政体] 共和制、半大統領制(任期5年)
[歴史] 旧ポルトガル植民地。奴隷貿易の中継地として利用されたが、19世紀以降は減少。
[宗教] カトリック
[言語] ポルトガル語、クレオール
[平均寿命] 71.28歳、146位
[妊産婦死亡率] 79人/100,000人、84位
[乳幼児死亡率] 25.13人/1,000人、77位
[識字率] 84.9%

3. 経済

[通貨] CVE、カーポヴェルデエスクード(1CVE=1.22円[2013年10月18日時点])
[産業] 観光業
[輸出品目] 農作物79.3%、鉱物資源0.9% 69,000,000USD
[輸出相手国] EU94.2%(スペイン66.6%、ポルトガル13.9%)、アメリカ5%
[輸入品目] 工業製品53%、農作物26.8%、鉱物資源20.1%、947,000,000USD
[輸入相手国] ポルトガル38%、オランダ21.4%、中国7.9%、スペイン7%(2012年時点)
[一人当たりGNI] 4,340USD

*参照資料

World Bank Cape Verde Overview http://www.worldbank.org/en/country/capeverde/overview
WTO Cape Verde Trade Profile http://stat.wto.org/CountryProfile/WSDBCountryPFView.aspx?Language=E&Country=CV
CIA World Factbook https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/cv.html
CapeVerde.com http://www.capeverde.com/




◆国家像の把握

0. 概観
前に書いたように、アフリカの一部とは信じられないくらいにカーポヴェルデは発展しているという第一印象を受けた。今まで見てきたアフリカ諸国とは違い、都市が整備されていて人々の身なりも良い。貧しいということをあまり感じさせなかった。
ウェブ上で入手できる範囲で資料を読んでいると、どうやらカーポヴェルデが発展しているのは事実だとわかった。その指標が、後発開発途上国(LDC, Least Developed Countries)からの脱却である。また、主幹産業は観光業でありヨーロッパからの観光客も多いらしい。自分がMindeloでフランス人カップルに遭遇したのもその表れということなんだろう。さらに、政治も選挙が公正に行われるなど安定しており、政治的にも経済的にも安定しているということで、アフリカの中ではやはり優等生らしい。
そこで、今出てきたトピックを中心に、カーポヴェルデとはどんな国なのか具体的に見てみる。



1. 貧困からの脱却

◎後発開発途上国からの脱却
カーポヴェルデはモルディブとともに後発開発途上国からの脱却が国連により認定された。後発開発途上国からの脱却基準は以下の通り。(UN Office of High Representative for the Least Developed Countries, Landlocked Developing Countries and Small Island Developing States http://www.un.org/special-rep/ohrlls/ldc/ldc%20criteria.htm より)

  • a low-income criterion, based on a three-year average estimate of the gross national income (GNI) per capita (under $750 for inclusion, above $900 for graduation);
  • a human resource weakness criterion, involving a composite Human Assets Index (HAI) based on indicators of: (a) nutrition; (b) health; (c) education; and (d) adult literacy; and
  • an economic vulnerability criterion, involving a composite Economic Vulnerability Index (EVI) based on indicators of: (a) the instability of agricultural production; (b) the instability of exports of goods and services; (c) the economic importance of non-traditional activities (share of manufacturing and modern services in GDP); (d) merchandise export concentration; and (e) the handicap of economic smallness (as measured through the population in logarithm); and the percentage of population displaced by natural disasters.

一つ目の一人当たりGNIについては、基本情報3.掲載の通り基準を満たしていそう。二つ目と三つ目の現状はどうかということで、MDGs (Millennium Development Goals、国連ミレニアム開発目標)の達成状況を調べてみた。




◎MDGs達成状況
入手可能なデータが限られており、8つ全ての目標を検討できたわけではないが、とりあえず見てみる。UN "Assessing Progress in Africa toward the Millennium Development Goals"(2013) http://www.undp.org/content/undp/en/home/librarypage/mdg/mdg-reports/africa-collection/ より

[Goal 1] Eradicate Extreme Poverty and Hunger

Target別のデータはあまり見つけられなかった。わかったのは、Target1.A(Halve, between 1990 and 2015, the proportion of people whose income is less than $1.25 a day)の達成率につき、都市と農村で3倍の格差があるということ。確かにPraiaを思い出してみると、中心地のプラトーを外れるとやや街並みが貧しくなったし、中心地の中でもホームレスのような貧しい人を見かけた。無料wifiが飛んでいる公園でネットを使っていた時に、物乞いに2回会った。成長には格差が伴うということなのか。
格差という点に関連して、男女間に貧困からの影響の受けやすさの格差があるらしい。具体的には、家事に従事する女性の労働価値が過小評価されがちであったり、そもそもの労働環境が悪かったり、待遇が悪かったり、ということだそうだ。んー、自分の例は思いつかない。ただ、後で出てくるように、カーポヴェルデはジェンダー間の平等は比較的達成されているようなので、そこまで深刻な問題ではないと推測する。

[Goal 2] Achieve Universal Primary Education

これについてはわりとデータがあった。まず、初等教育入学率で
1999年:70%弱 → 2010年:93.5%
とかなり改善しており、達成まであと少しだ。本当は入学後に留年せずにちゃんと卒業するかが大事だったりするのだが、そこまでのデータはなかった。
次のデータが識字率である。
2010年:98.3%、男女間格差:1%程度
識字率の良し悪しは教育へのアクセス有無によって変わってくると考えられるので、原則として初等教育入学率に相関すると思われる。カーポヴェルデのデータもこれに則っている(例外的に、ルワンダやアンゴラなど内戦経験国では、入学率より識字率が低い傾向にある。初等教育低学年の生徒がまだ読み書きできないこと、内戦非経験国に比べて教育の質が低いこと、が要因か。)。

[Goal 3] Promote Gender Equality and Empower Women
得られたデータは初等教育入学率の男女間格差。
1990年から2010年へ低下。具体的数値は不明。

[Goal 4] Reduce Child Mortality Rate
Indicator4.1(Under 5 child mortality rate)1990年から2010年にかけて60%の改善が見られた。要因は複合的で、医療体制の強化、医療への投資増加、関連分野での支援展開、医療技術の進歩などが考えられる。Indicator4.2(Infant mortality rate)1990年から2010年にかけて60%の改善が見られた。

[Goal 5] Improve Maternal Health
Traget5.A(Reduce by 3 quarters between 1990 and 2015 the maternal mortality rate)は、100人/100,000人当たり。目標達成可能か不明だが、かなり前進している。

[Goal 6] Combat HIV/AIDS, Malaria and Other Diseases
Indicator6.6(Incidence and death rate related with malaria)で、75%改善し、大きく前進。現地の宿では窓に蚊帳がついてたし、ほとんど蚊はいなかった気がする。聞いた話ではカーポヴェルデではマラリアのリスクはないらしいし。マラリアは蚊により感染源から原虫が運搬されることにより発症するもので蚊自体にウイルスがあるわけではないため、感染者が少なければ比例して新規感染も減少する。

[Goal 8] Develop a Global Partnership for Development
このゴールに関連して、カーポヴェルデは貿易業発展のため支援を受けているらしい。それ以上の情報はない。Mindeloの港湾は漁船やら小さいボートやらばかりだったが、Praiaには大きな貨物船が停泊しており、カラフルなコンテナが積載されていた。中継貿易か。

*参照資料
World Bank "Cape Verde Fifth, Sixth, Seventh poverty reduction support credit project"(2013) http://documents.worldbank.org/curated/en/2013/06/18018967/cape-verde-fifth-sixth-seventh-poverty-reduction-support-credit-prsc-project



2. 
主幹産業は観光業
カーポヴェルデは、ロンリープラネットにて、カーニバルやビーチ、火山など文化や自然を楽しめる観光地と紹介されている。自分の場合は季節外れな訪問だったが、夕方のバーで開かれたドラムのコンサートを聞くことができた。また、プライアの宿に置いてあった世界のカーニバルを紹介する雑誌にはカーポヴェルデが大々的に取り上げられていた。ここ1年以内に発刊されたもので新しい。次は、観光業に焦点を当ててみる。

◎1990年代からの急成長

まず現在のデータについて、資料から転載する。
[観光収入] 352,000,000USD(2011年)
[観光収入の対GDP比] 15%(2011年)
[観光収入の成長率] 約25%(2008年)
[観光業労働人口] 27,800人(2011年)
[観光業労働人口の対全労働人口比] 13%(2008年)
[観光客数] 67,042人(1999年)から285,141人(2008年)
観光客数の爆発的増加からわかるように、2000年以前に観光業は盛んではなかった。しかし、援助資金や海外在住者からの送金への依存から脱却するため、政府主導で自然環境を活用した観光業に取り組むようになった。具体的な取り組みについて、いくつか触れる。

・ 空路交通網の整備

カーポヴェルデは島国であるため、空路が主な交通手段の一つとなっている。政府による観光業への注力と投資の結果、90年代にはSalにしかなかった国際空港も現在ではPraia、Boa Vista、Mindelo、Salの4つに増加した。また、セキュリティ強化の結果、Salの国際空港(Amílcar Cabral International Airport)のアメリカ政府による格付けが上げられ、アメリカからの直行便が飛ぶようになった。デルタ航空は週に2回、アトランタから東アフリカ・南アフリカに向かう便のストップオーバーとしてSalを使用している。ヨーロッパでは、リスボン、ローマ、ミラノ、マドリッド、パリ、アムステルダムへの直行便がある。また、カーポヴェルデにはTACV(Transportes Aereos Capo Verde)という国営の航空会社があり、国内線と国際線を運航している(http://flytacv.com/homepage/?lang=en)。

・ 開発区域の設定

「開発」というと語弊があるが、自然環境豊かなエリアを指定して観光地化したということである。政府がSal島とBoa Vista島の広大な土地を買い上げ、観光客誘致のための"Integrated Tourism Development Areas (ZDTIs)"と、多様な生態系保護と観光客誘致のための"Zones for Conversation and Protection for Tourism (ZRPTs)"を設定した。

最後に蛇足で、近年、富裕層の別荘地としてカーポヴェルデの人気があるらしい。



◎カーニバル

せっかくなので、どんなカーニバルをやっているのか調べてみた。すると、自分がMindeloにいた9/15にSalでフェスティバルをやっていたらしく、自分の調査不足が若干悔やまれる。しかしTACVの運行状況を調べてみるとスケジュールに合う便がなかったのでまあよしとしよう。
[Sao Vincente]
(1) Sao Vincente Creole Carnival:2月中旬
イースターの40日前の開催されるお祭りで、旧植民地のポルトガルとブラジルのカーニバルに雰囲気が似ているらしい。
(2) Sao Vincente Baia das Gatas Festival:8月の満月の日
たいてい、8月の週末に開催されるらしい。

[Boa Vista] Santa Isabel: 7月4日(祝)

Boa Vistaでは8月にSanta Cruzでいくつかフェスティバルが開催されるほか、Santa Isabelのお祭りが7月の祝日に開催されるらしい。

[Sal]

(1) Nossa Sra. De Piedade:8月15日
水泳大会とコンサートが開催されるらしい。
(2) Santa Maria Festival:9月15日
Santa Mariaにて1年に1回開催されるコンサートがこれ。

[Santiago]

(1) Gamboa Festival:5月17/18/19日
San Fransiscoの海岸で開催される、カーポヴェルデ最大のコンサート。海外からもミュージシャンが来るそうだ。
(2) Tabanka:6/7月
奴隷解放を祝うために開催されるお祭り。


*参照資料

 World Bank "Tourism in Africa: Harnessing for Growth and Improved Livelihood"(2013) http://www.worldbank.org/en/region/afr/publication/africa-tourism-report-2013
The Cape Verde Experience http://www.capeverde.co.uk/Docs/Cape-Verde-Guide/General-Information/Festivals.aspx



3. 政治的安定性

アフリカでは腐敗により援助資金が一般市民まで届いていないと言われる中、カーポヴェルデは民主化が進んでおり、政治的に安定しているらしい。まずは歴史をおさらい。

◎歴史

1975年にポルトガルから独立したのち、マルキスト共産党一党政権が15年存続した。しかし、民主主義政党の登場により共産党一党政権は終焉を迎え、1991年に行われた議会選挙・大統領選挙ともに民主主義政党が勝利した。これにより旧ポルトガル植民地で初めて共産党政権が崩壊し多党制民主主義政権が誕生した国となった。その後、2001年、2006年、2011年に選挙が行われたが、2011年の選挙の結果、大統領と首相が別個の政党から選出されることとなるなど民主制が定着していると見られる。現在も複数政党による政権運営が円滑に行われている。

*参照資料

Reuters "Cape Verde opposition concedes election defeat"(2011) http://www.reuters.com/article/2011/02/07/capeverde-election-idAFLDE7160UT20110207


◎現在の政治体制に対する評価
では次に、どれほどの政治的安定性があるのか、ということが気になる。本来であれば、選挙制度、共和制の具体的内容などを調べて考察するべきなのだが、能力と時間の制約上、そこまではできなかった。そこで、国際的に一定の評価を得ていると思われる2つの資料を参考に、政治的安定性の度合いを調べてみた。

(1)State Fragility Index And Matrix 2012

これは、8つの指標を設け、正当かつ実効的な支配を行っているかどうかを人口50万人以上の独立国について数値化して評価したものであり、8つの指標の合計数値がFragility Index(支配の脆弱性?)として最低25点から最高0点で表記される。例えば、

[20~25点] ソマリア、コンゴ民主共和国、、アフガニスタン、ミャンマーなど

[16点~19点] シエラレオネ、ブルンジ、ギニア、ハイチ、リベリアなど
[12点~15点] アルジェリア、ネパール、パキスタン、ザンビア、ガーナなど
[8点~11点] ブータン、ボリビア、ガボン、レソト、ニカラグア、フィリピンなど
[4点~7点] キューバ、フィジー、コソボ、リビア、ロシア、タイ、アルメニアなど
[0点~3点] ボツワナ、キプロス、モンテネグロ、UAE、アメリカ、日本など

といった分布になっている。次に8つの指標の中身を見てみると、国家の安全保障や、政治的安定性などを、自国で発生した紛争の数や休戦期間を基礎にして、政治体制、経済安定性などを、数値を基礎にして計算されている。

カーポヴェルデのスコアは6点で、国家としてかなり安定しているようだ。しかも、スコアを上げた原因は、一人当たりGDPとHDI(Human Development Index, UNDPが各国の開発の進展度合いを示すために開発した指標。参考:http://www.undp.or.jp/HDI-HDR%20release%20_J.pdf)がやや低かったことにあるため、政治的側面にマイナス要素があったわけではない。

*参照資料

http://www.systemicpeace.org/inscr/SFImatrix2012c.pdf (Polity IV Project http://www.systemicpeace.org/polity/polity4.htm より)

(2)2013 Ibrahim Index of African Government Summary Report

これは、アフリカ大陸諸国の統治を、"Safety and Rule Law"、"Participation & Human Rights"、"Sustainable Economic Opportunity"、"Human Development"の4つの指標から総合評価したものである。合計94のデータに基づいており、評価構造が細かく設計されている(評価構造については右を参照http://www.moibrahimfoundation.org/downloads/2013/2013-IIAG-structure.pdf)。
政治体制に関係するものは前者2つであるため、両指標に着目してみる。
[Safety and Rule Law]
カーポヴェルデは80.1で3位/53ヶ国である。下位指標の数値は下記の通り。
Rule of Law: 81.5(5位)
Accountability: 79.4(2位)
Personal Safety: 59.5(6位)
National Security: 100.0(1位)

[Participation & Human Rights]
カーポヴェルデは81.7で1位。下位指標の数値は下記の通り。
Participation: 96.2(1位)
Rights: 83.2(1位)
Gender: 65.6(14位)

*参照資料
ウェブ上で検索をかけている限りでは、国内の人権状況についてあまり詳細な分析はなされていないようだ。国際条約への批准有無についてはOHCHR(Office of High Commissioner for Human Rights)のサイトにまとめられていたので、そちらをまとめる。

◎国際条約への批准状況
[人種差別撤廃条約] O: 1979年批准
[国際人権規約] O:  1993年批准
[自由権規約] O:  1993年批准
[女子差別撤廃条約] O:  1980年批准
[拷問等禁止条約] O:  1992年批准
[児童の権利条約] O:  1992年批准
[ジェノサイド条約] X
[国際刑事裁判所ローマ規程] X
[難民条約、議定書] X


◎国内の人権状況
アメリカ政府による人権状況報告書2012年版にまとめられていたので、それを粗く訳してみた。
(1) 拷問または残忍で非人道的な処置、処罰
憲法、法律上では禁止されているが、警察による被逮捕者・被勾留者に対する暴力がケースが報告されている。拘留所への人権委員会の訪問は許可されており、水不足や衛生環境の悪化といったケースは報告されていない。
裁判官は、非暴力行為の事案で2年以下の懲役刑については中止を命ずることができる。懲役刑が中止された場合、囚人は社会復帰プログラムに組み込まれ、「社会にとって有益な労務」を行う。しかし、矯正担当官が不足している現状だ。
囚人や被勾留者には訪問者との接見や信教の自由が認められている。

(2) 恣意的な逮捕、勾留
警察には、国家警察と司法警察の2種類があり、それぞれ法の執行と捜査を担当している。しかし、車輛など交通手段や通信手段などが不十分であることが原因で、警察が本来期待されている機能を果たせていない。政府は、警察の実効性を高めるため、2011年と2012年に警察官を対象にワークショップを開催した。ワークショップは、性差別に起因する暴行についての講義や、その被害者に対するアフターケアを主な内容としており、2012年には最初の犯罪実行後の被害者保護に重点が置かれた。
警察は逮捕から48時間以内に勾留請求しなければならず、日本の72時間に比べて短い。しかし、保釈が制度として認められており、被勾留者は家族や選任した弁護士との接見が可能で、金銭的理由により弁護士を選任できない場合は、国選弁護人が選任される。

(3)憲法上の人権
日本の憲法上の権利の分類に従って、調べてみた。凡例は下記の通り。
O:おそらく無制限、△:制限あり、X:認めず
[信教の自由]  O
・  信仰の自由  O
・  強い政教分離も規定。個人の宗教の自由が侵害された場合、懲役3月以上3年以下の刑罰。
[表現の自由]  O
・  報道の自由  O
・  知る権利  O
[集会結社の自由]  O
[移動の自由]  O
[学問の自由]  O
[労働三権]  △
社会にとって必要不可欠な業種については、国家がストライキを強制的に中止する権利を有している。例えば、通信、医療、消防、司法などである。
[女性の権利]
強姦罪は最低懲役8年から最高懲役16年の刑事罰を課される。家庭内暴力は最低懲役2年から最高懲役13年まで。2011年3月には家庭内暴力への特別措置法が制定され、強姦罪などの刑事罰が重くなるなど女性に対する保護が手厚くなった他、女性の保護施設設立を求めるなど意識喚起の役割も担っている。しかし、予算不足で十分な数の施設が設立されるには至っていない。
セクハラへの対処も行われており、最高で1年の懲役と給与2年分相当の罰金が課される。
*参照資料
Human Rights Council "COMPILATION PREPARED BY THE OFFICE OF THE HIGH COMMISSIONER 
FOR HUMAN RIGHTS" http://lib.ohchr.org/HRBodies/UPR/Documents/Session3/CV/A_HRC_WG6_3_CPV_2_E.pdf
OHCHR "OHCHR Report 2012" http://www2.ohchr.org/english/ohchrreport2012/web_en/allegati/15_Africa.pdf
US Department of State "Cape Verde 2012 Human Rights Report" 
http://www.state.gov/documents/organization/204310.pdf Cape verde International Religious Freedom Report http://www.state.gov/documents/organization/208340.pdf


◆課題

1.食糧不足
カーポヴェルデの抱える深刻な問題の一つが、食糧自給率である。カーポヴェルデは乾燥気候にあるため、耕作可能な土地が国土の10%程しかなく、食糧を海外から輸入している。しかし、現在のところ食糧供給は安定しているようだ。詳細を後日加筆予定。
*参照資料

FAO STAT 国産農作物 http://faostat.fao.org/DesktopDefault.aspx?PageID=339&lang=en&country=35
FAO STAT 輸入農作物 http://faostat.fao.org/desktopdefault.aspx?pageid=342&lang=en&country=35
http://www.irinnews.org/report/83198/cape-verde-growing-food-without-soil
http://www.fao.org/giews/countrybrief/country.jsp?code=CPV



2.観光業発展の反動
・ 余りに急速な観光業の発展
既に触れたように2000年代に入ってから急速に観光業が成長したために、その社会や環境への影響を監視するシステムが追い付いておらず、生態系への悪影響につながっている。また、観光業成長の恩恵が国全体に行きわたっておらず、格差を生み出している。

・ 国内産業の成長遅れ

外資の入りやすい投資環境が形成されたのは良いが、水/衛生環境や食事、ゴミ収集、環境保護など、観光業を支えるインフラ整備が遅れている。その結果として、観光業の成長が貧困軽減に直結しないことが懸念されている。

・ より良い娯楽を提供するためのサービスの質の向上

観光業の成長により雇用機会が創出されているのはよいが、高い失業率のもとでは新規労働者の質が低く、改善が望まれる。

・ 観光客の局地的集中

カーポヴェルデを訪れる観光客の75%は、人口の10%程度しか居住していないSalかBoa Vistaに行くらしい。残りの90%の国民にその恩恵を拡散する役割が政府に期待される。