2014年3月31日月曜日

9/19 シエラレオネ2日目 フリータウンを駆け回る

昨日は移動ばかりで特別体力を使ったわけではないが、今まで訪れた国で恐らく一番貧しく全く見知らぬシエラレオネの土地で、ほぼ真っ暗闇の中なんとか無事に宿に辿りついて安心したのか、前日の蚊との闘いが尾を引いたのか、ネカフェから帰ってきてベッドで横になると、いつの間にか眠りに落ちていた。それくらい寝た時の記憶がない。午前1時くらいに一旦起きて荷物を整理してまた寝た。

この日は午前7時くらいに起きた。時差ぼけが何となく続いているのか、旅先ではいつも比較的早起きになる。カーポベルデでは午前6時には起きていた気がする。シエラレオネには1週間滞在予定で、事前に何人かシエラレオネに滞在されていた方に連絡していてお会いする予定だったが、それ以外は特に何も予定がなかった。バックパッカーの方のブログを読んでいるとシエラレオネには移動も含めてせいぜい4日程度しか滞在しないようで、いわゆる観光スポットはあまりないようだ。
マストでやらなければいけないことは次に訪れるリベリアのビザ取得で、この日に申請する予定だった。申請の翌日に取得できるので、木曜であるこの日に申請しておけば問題なかった。

宿の前の坂道。地元の人の生活の場。

昨日真っ暗闇の中彷徨っていた宿はほぼ海沿いで、門を出て少し歩けばすぐそこに海があった。周囲にはスラムが広がっており、昨日も感じた通り、とてもここに欧米人向けの宿があるとは思えなかった。宿の前の坂道沿いにコンクリ剥き出しの5階建ての廃墟があり、昨晩雨が降ったせいか、コンクリの内部を通る金属棒から水滴が不気味に滴っている。廃墟の側を通ると、工具を持った複数人の人影が見えることがあり、トンテンカンと何かを叩く音が聞こえてくる。修復したところで使えるようになるとはとても見えず、何をしているのかよくわからなかった。そんな廃墟が近くにあったことでとりわけ、シエラレオネの第一印象は、今まで訪れたどの国よりも貧しい、であった。
宿の前の道は急な坂になっており、それを上って行くと山腹を横に走る舗装された一本道に出ることができ、沿道には地元民向けのレストランや商店などが並んでいた。さらにその道を横断して坂道を上って行くと、Congo Crossを通る主要道路のCongo Town Main Roadに出る。

左手の奥に見える2階建ての建物が宿。右手はNGOの建物。奥に海が見える。

宿から坂道を上がったところにある商店街通り。

泊まった宿は、NGO職員が運営しており、国連やNGO、USAIDといった援助機関でインターンをしている欧米人向けに始められたもので、本来はバックパッカーのような旅人が来ることは想定されていない。オーナーが常駐しているわけではなく、その右腕とも言える職員が客からの料金の徴収や物資の調達、施設の管理を行っている。半地下を含めた3階建ての建物で、私は半地下の部屋に泊まっていた。1階にある共用リビングは、よくあるホステルのように使い古されたソファーが雑然と置いてあるのではなく、比較的こぎれいに丸いテーブルとそれを囲むように椅子、手入れのされたソファーが並んでおり、ここでくつろぐことができる。私の泊まった部屋はだだっ広い中に大きめのベッドと大きめの机、扇風機があるだけだったが、蚊帳はちゃんとあったし、プラグはタコ足で、扇風機は順調に風を送ってくれた。そんなわけでダカールとは比較にならない快適度で、特に飾り気のない部屋でも私は満足していた。

宿泊した部屋。エアコンは使えなかったが、きれいで快適だった。

9時頃、宿の人にお金を払って用意してもらったコーヒーと目玉焼きの朝食を食べた。昨日のオカダを呼び出し、程良い暑さの中、リベリア大使館に向かった。既に書いた通り、フリータウンは海沿いの町だが山が迫っているので険しくしかも未舗装の坂道が多い。リベリア大使館は宿とは山の反対側にあるので、山を一度登り切らなければいけない。オカダにはそんなに馬力がないので、かなり急な坂を一生懸命登っている時の音を聞くと壊れないかかなり不安になる。こちらはこちらで、道は細くてたくさん陥没しているので激しい上下の振動で振り落とされないように気をつけなければいけない。
私が初めてバイクに乗ったのは半年前にルワンダの首都キガリでバイタクに乗った時であった。日本でバイクに乗ったこともなかったのにいきなりアフリカでバイタクに乗ったのだ。当時は、2年半ぶりのアフリカでだいぶ縮こまっていた上、バイタクは危険だから乗らないと刷り込まれていたから、それに乗る気はなかったのだが、同宿の旅人に大丈夫だと言われ、到着初日から乗ってしまった。今から考えればヘルメット着用義務がしっかり守られていたルワンダしかもキガリのバイタクは恐らくアフリカの中で一番安全で、そこまで怖がる必要はなかったのだが、バイクの乗り方すらわからないままドライバーに命を預けるのはかなり怖かった。千の丘の国と言われるほど丘陵の多いルワンダの坂を下るのにドライバーの兄ちゃんの肩にしっかりしがみつき硬くなっている自分の姿を思い出すと滑稽だ。
フリータウンの坂道は相当急で、しかもデコボコも激しい。当然ヘルメットはない。相当に体を上下に揺られながら何とかバイクにしがみついていた。渋滞の少ないキガリの緩やかで舗装された坂道とは比べ物にならない。

丘の上から見たフリータウン。左手に海がある。

距離的にはそこまで遠くはないのだが、山を上りきり少し下るとリベリア大使館に到着した。大使館は2階建ての建物で、中に入るとおばちゃんが受付をしてくれた。通してもらった部屋は冷房が利いて涼しかった。
リベリアビザは申請者をEuropean、American、Chinese等々分類していて、カテゴリーに対応した価格がついている。ビザ情報のエントリーにも書いたが、事前の情報では、Japanese枠はなくChineseに分類されて90USDが相場かと思ったが、即日発効でしかも50USDで済んだという話もあり、やや金欠だったため50USD即日発効に期待していた。しかしその期待は簡単に裏切られ、あなたはChineseじゃないからEuropeanねと訳のわからないことを言われて100USD払う羽目になった。その場で100USDを支払い、翌日また受け取りに来てと言われ、手続きは終了した。

待たせていたオカダでまたオアシスに向かった。世界どこに行ってもインターネットが使えるのは本当に便利だ。オアシスは30分6,000レオネでwifiを使わせてくれる。通信速度はそこそこで、停電してもジェネレーターがあるからネットが使えないということもあまりない。
シエラレオネはセネガルやカーポベルデに比べて格段に物価が安く、多少金銭的に余裕があったのでクールブリーズというミント系のフルーツジュースを頼んでみたが私の口に合わず、16,000レオネもしたので調子に乗ったことを少し反省した。ちなみに後日オアシスで昼食をとったが、東南アジア風のカレーは上品でおいしかった。オアシスは海沿いの平坦な土地にある二階建ての一軒家で、店はエスニック調に内装されており素敵なレストランだ。白人の援助関係者がよくインターネットを使っている。

オアシスの看板。マレータウンジャンクションから少し歩いたところにある。

オアシスから見た海。


シエラレオネに来たのは紛争後の社会がどうなっているのか自分の目で確かめたかったからで、この後に訪れる予定のリベリアもその目的から訪問先に決めたものだった。2ヶ月間滞在したケニアの難民キャンプも相当貧しく、紛争中の社会の一側面を表している場所だったが、紛争の爪痕が残っているわけではなく、異なる。
渡航前に何人かフリータウン在住の知人を紹介して頂いていたので、その伝手で援助関係者にお会いする予定だった。この日はたまたま、知人がお世話になっている国連職員の方にお話を伺うことができた。
オフィスの場所がわからなかったのでオアシスの従業員にロンプラの地図を示しながらどの辺か教えてもらったのだが、この時、オアシスのオーナーと思われるおばちゃんがオアシスがロンプラで太字で紹介されているのを発見し大喜びしていた。喜びのあまり私にコピーを取っていいかと頼んできたほどである。私はもちろん快諾した。同時に、オアシスに来た人でこれまで私のようにお店の従業員にロンプラを見せた人がいなかったという事実に私は驚いた。確かにバックパッカーがよく使う宿はフリータウンの中心地にあり、オアシスや私の宿は中心地から離れていたため、バックパッカーがオアシスに来ることがほとんどないだろうとは想定できるが、これだけ援助関係者が出入りしているお店なのだから、誰か一人くらいロンプラを持っていてもいいのではないか。みな、自前のランクルがあって、お互いのオフィスの場所くらいわかるからロンプラなどいいらないということか。

こうして場所を把握してオフィスに向かった。オカダで近くまで行き、オフィスのゲートまで来ると、ダダーブでUNHCRのオフィスに出入りした頃を思い出した。ゲートにいるセキュリティに要件を告げてビジターパスをもらう。ダダーブでは自分の身分証があったからビジターパスはもらわなかったから、HCRにはよく来ていたからこの手続きが懐かしかった。
オフィスは内戦当時からあるらしく、コンクリートの平屋で白く塗られた壁は、内戦の傷跡か、所々汚れていた。先方はチャイルドプロテクションの担当者で、2013年4月からフリータウンでの勤務を始められた。アメリカで法曹資格を取った後、国内で子どもの人権保護活動に取り組み、その後はカメルーン、コートジボワールで開発コンサルの仕事をしていたそうだ。開発業界には珍しく30代前半なのに結婚して2歳くらいの子どももいらした。ご家族もフリータウンに住んでいらして、後日に奥様とお子様にも偶然お会いできた。ちなみにフリータウンの前はコートジボワールの首都アビジャンに2年ほど住んでおり、居住環境は「フリータウンとは比較にならない(程良かった)。」そうだ。
非常に素敵な方で、私はあまりに突然の訪問だった上、この方にお話を伺えると思っていなかったため質問をほとんど準備できておらず、事前の勉強で考えていたこと、その場の話の流れで思いついたこと等を伺ったが、親切に対応して頂いた。ここで伺った話については、後日に訪問したチャイルドプロテクションに取り組むNGO職員へのインタビューや事前の調査とまとめて掲載させて頂きたいと思う。

45分程のインタビューを終えると、私は外に出てただの旅人に戻った。日本から30時間もかけてシエラレオネまでやってきてインタビューをしてみても所詮はやはりただの旅人である。オフィスの近くには、内戦の主犯たるロバートテイラー元大統領の公判係属中のSpecial Courtの建物があったが開廷しているわけでもなく、外から見るしかすることがない。もう少し事前に質問を準備しておけばよかったと後悔しつつ、私は一旦宿に戻った。

私が訪れたオフィスのある一画の入り口。 


オフィスのある区画の近くを通る道路。舗装されているようないないような...。


左手にSpecial Courtが見える。

心機一転シャワーを浴びて、フリータウンの中心地に繰り出すことにした。やはりどこに行っても街歩きは必ずしなければいけないし旅の醍醐味である。再びオカダに跨って10分程度、中心地は案外近かった。フリータウンのシンボルに大きなコットンツリーがあることは有名だったのでとりあえずそれを目安に降ろしてもらうと思ったが、その周辺は警察が多くて交通規制されているから行けないよとドライバーはその周辺に止まることをなぜか執拗に嫌がっていた。世界有数の腐敗国家の警察は市民からこれほどまでに恐れられているらしい。幸か不幸か、一週間後に私もその洗礼を受けた。

フリータウンの象徴、コットンツリー。見た目以上に迫力がある。

ともあれ中心地に降ろしてもらったが、人通りも車通りも多くて活気はあるものの街全体が古く雑然としているように見え、やはり貧しいという印象を受けた。訪れる街を、「きれいだ」とか「活気があって大きい」とか、安易な一言でまとめたくないのだが、それでもこれが一国の首都かというくらい首都らしくなかった。

EcobankのATMがあったので思わず撮ってしまった。正常に動作するかは知らない。


海岸から山に向かって伸びる中心地の道路。沿道には露店が立ち並ぶ。

特に観光スポットがあるわけではないので、何をするでもなく街を歩き回っていた。前評判ではATMが一軒もないということだったが、ZurichやEcobankの支店があり、全く不可能というわけではなさそうだった。しかし、援助関係者の間では、ATMに入れるとカードが飲み込まれて返ってこないから絶対使わない方がよいと言われているそうだ。やはり現金は偉大である。
どの街に行っても中心地の道路沿いには屋台が並んでいるが、フリータウンは特にお店が多かった。サンダルや靴、服など日用品がたくさん並んでいる。雨季の終わりに訪れたため時折突如雨が降り出すことがあるのだが、それにも慣れたものであっという間に商品を傘の中に取り込んで雨が止むのを待っている。
私は、何かお土産になるような目ぼしいものはないかとお店を覗きながら歩いていたが、日用品ばかりで「シエラレオネっぽくてお土産になりそうなもの」は特に見当たらなかった。

露店に並ぶスーツケース。いくらネタでもスーツケースは持ち帰れない。

少し歩いて海沿いの道から坂を上るとコットンツリーが見えてきた。ここに来る前はただの木だと思っていたが、実物を見てみると想像以上に大きくて迫力がある。バックパッカーの先人が見る価値ありと言っていた理由もわかる。トトロに出てくる大きな木を彷彿とさせた。誇張でも何でもなく、本当にそう感じた。最も、木には大量のコウモリが住んでおり、コウモリに噛みつかれた日には狂犬病になってしまうかもしれない。

下から見上げたコットンツリー。シンボルだけあって見た目的に包容力がある。

コットンツリーからさらに海岸線と平行に西に足を伸ばすと、地元の人が買い物をしていそうな食べ物市場が出てきた。お昼も食べていなかったので何か果物でも買おうと思い、バナナとグレープフルーツ、パイナップルを買った。お店にいたおばちゃん達は白人が通りかかって立ち止まるのが珍しいらしく、立ち止まった私に声を掛けまくって何かを高値で売り付けようと必死だった。値段交渉が得意なわけではないが、地元の人とやりとりをするのは好きだったので、私はいろいろ個数を調整したりして粘ってみる。おばちゃん達も私の腕を掴んで離さず、相当粘り強い。こういう交渉で私は必ずやや高値を掴まされるのでこの時は相当交渉したつもりだった。しかし、おばちゃん達が余りに折れなかったので、相場はそんなものなのかと思い、私が折れてしまった。後で宿の従業員に聞いてみたところ、やはり高かったらしい。20円程度で2日分の朝食と間食が買えたと思って納得することにした。

食べ物を売る露店があった通り。露店がひたすら多い。


中心地の外れの方の様子。建物のぼろさが目立つ。

1時間半ほど狭い市内をぶらぶらした後、宿に戻って従業員のファトゥマにパイナップルを裁いてもらい、遅い昼食を取った。ウガンダのカンパラで毎日買っていたパイナップルより小さかったし、辛かったのではずれを引いたようだ。従業員のドナルドはそういうこともあるさ、と笑って慰めてくれた。

夕方18時に日本人の知り合いの方と待ち合わせをしていたので、それまで適当に時間を潰し、待ち合わせ場所のスーパーに歩いて向かった。スーパーは中心地とは反対方向のオアシス方面にあるもので、日用品から食料品まで海外から輸入ものが揃う大型のものだ。東アフリカで言うところのナクマットやウチュミである。やはりどこの国でも外国人向けのスーパーはあるようだ。
シエラレオネとリベリアでは、ビジネスの殆どをレバノン人と中国人が取り仕切っている。なぜレバノン人がこの地域に多いのか不思議に思う方も多いかと思うが、レバノンから新天地を求めてアフリカ大陸を南西に降りてきて行きついたのがこの辺りの地域だからだそうだ。伝聞なので真偽は確かではないが、それはともかく、彼らはとても商売がうまいらしい。このスーパーの後に食事をしたレストランもレバノン人が経営していた。中国人については、最近のアフリカ進出の流れで入ってきているものと思われる。シエラレオネで中国人を見掛けることは殆どなかったが、街の一角に中華料理屋があった。空港で私と一悶着あったのも中国人だったが、何かビジネスをやっているのだろうか。リベリアについては後日また触れたいと思う。

「アラビカ」でエビ・牛肉・鶏肉のグリルとポテトをおいしく頂き、知人のお宅にお邪魔させて頂いた。お宅を出たのは夜の22時半頃で人通りも相当少なくなっていたが、それでも歩けるということだったのでその日のうちに歩いて宿に戻った。久しぶりにちゃんとご飯を食べたので幸せな時間を過ごすことができた。