2014年7月1日火曜日

9/20 シエラレオネ3日目 休憩

私は一人旅をすると金をケチる癖があり、今回は特に出費には慎重になっていたので、毎日満腹にご飯を食べていたわけではなかった。しかも長期のバックパッカーと違い、私の旅は短くやはり非日常なので、限られた時間を充実させようと、あまり休息をとらなかった。
これまでの行程は毎日動き回って毎晩飲んでばかりというわけでは全くなかったが、それでも疲れは溜まっていたらしい。この日はあまり活動せず、午後は少し頭が重かったので部屋で休んでいた。


宿泊していた宿。右奥に見えるのが海。


8時に起床し、シャワーを浴びて昨日買ったバナナ2本を食べて朝食を済ませた。昨日と同じように宿の人に朝食を用意してもらってもよかったのだが、やや割高なので自前で調達することにした。
既に書いたように、この宿はシエラレオネの援助組織で長期インターンをする欧米人のためのもので、私が滞在していた時も欧米人女性3人と日系女性1人が宿泊していたようだった。ようだった、というのは、私がこの宿に滞在していた間、毎朝8時前後に起床していたため、他の宿泊者と生活時間帯が異なり、顔を合わせることが殆どなかったからだ。宿の従業員のマイケル(仮名)が私にアメリカ育ちの日本人女性が滞在しているといつも私に教えてくれていたのだが、出張で彼女が週末も出かけていたこともあり遂に顔を合わせることがなかった。
渡航前に連絡を取っていた知人の方とは明日お会いする予定だったので、この日は特にすることがなく、またメールでもチェックしつつネットを使おうとこの朝もオアシスに向かった。

オアシスに向かう方法は2通りある。1つは、宿の前を通る坂道を上ってCongo Crossの方に出て行く方法だ。もう1つは、宿の出入り口を出てすぐに右に折れ、民家の間を通って、海岸線と平行に歩いていく方法だ。後者の方が圧倒的に近く5分程は短縮できるし、子どもを背中にしょってたらいで洗い物をする母親や、その辺で細い木の枝を持って兄妹で遊ぶ子ども達を脇目に歩けるので、こちらの方が楽しい。
普段の日本での生活で言えば、最寄り駅に歩いていくルートをどうするかといったレベルの他愛のない話だが、自分の見知らぬ土地ではこうしたちょっとした工夫も旅を楽しくするものだ。特にフリータウンで私が滞在していた宿の周辺は、大通りの裏手には、表通りにはなかった地元の人の生活が広がっているからちょっと道を工夫するだけで全く違う世界を見ることができる。一介の旅人ながら、その国の人の生活に少しでも近づけたという気分になる。

学校帰りの子どもたち。

晴れた日の青空はどこまでも透き通るよう。


適当にネットサーフィンをした後、オカダで裁判所に向かった。新しい国を訪れた際には、できるだけ裁判所に行くようにしている。「できるだけ」というのは、言語がわからなかったりすると裁判を傍聴してもあまり内容がわからないので、国によっては行かないこともあるということだ。フランス語が公用語のセネガルと、ポルトガル語が公用語のカーポベルデでも裁判所に行かなかった。カーポベルデは滞在期間が短かった上に島と島の移動に時間がかかるので実際のところ裁判所に行くのは難しかったのだが、セネガルの場合は正直なところ少し面倒だったというのもある。西アフリカの主要都市の一つであるダカールでくらいはせっかくだから行くべきだったと後悔している。
初めての裁判所訪問は、ルワンダで旅仲間に連れられて行った時だった。「アフリカのジュネーブ」と言われるキガリにある、最高裁判所併設の地方裁判所で刑事裁判を傍聴した。フランス語かキニアルワンダ語で行われており傍聴しても何が何だかだったが、後で聞いたところによると、公判(刑事裁判)を流れ作業的に行っていたらしい。ルワンダに入る前は裁判所に行くなど全く頭に思い浮かばなかったので、誘ってもらって非常に感謝している。

その後、ウガンダとケニアで裁判傍聴をしたが、ウガンダの首都、カンパラで裁判傍聴をした際は、現地人でも援助関係者でもない私に興味を持ったのか、裁判官の方に声をかけて頂き、傍聴していた裁判内容を説明して頂き非常に親切にして頂いたこともあった。


裁判所は街の中心部に近いエリアにあり、黄土色の壁と濃緑の屋根でできた建物は平屋だが比較的新しい。ちなみにオカダ運転手に裁判所まで連れてってくれと言ったらちゃんと正確な場所まで連れて来てくれた。前にカンパラでバイタクを使った時は、裁判所と言ったのになぜかバックパッカーの宿に連れられ、仕舞いには場所がわからないから勘弁してくれと、宿泊していた宿から徒歩5分程で行ける司法省で降ろされた。5,000UGX(100円くらい)はするであろう距離を走ったが、目的地に全然着いてないから料金は払わないよ、と言ったら渋々走り去って行った。わざわざ裁判所に行こうという旅人も変わっているが、目的地をちゃんと確認しないドライバーが悪い。

カンパラの地裁。フリータウンのは写真を撮りづらい雰囲気だったので写真なし。

裁判所に入る際にはたいていセキュリティチェックがあるが、国によって厳しさが全く異なる。一番緩かったのがルワンダで、地方裁判所の公判にはノーチェックで入ることができた。外国人なのにパスポートもチェックせずに通してしまって大丈夫なのかと不安になるほどだった。次に緩かったのがウガンダで、衣服の外から検知器を当てただけで終わりだった。ナクマットなど大きなスーパーでも検知器検査はある上、検知器が鳴っても無視するので、これもルワンダとあまり変わらない。ケニアは高裁に行ったせいか、それとも大統領選挙直後の裁判の時期に行ったせいか、かなりちゃんとチェックを受けた。入口に建物があり、そこで空港ばりの手荷物検査を受けた上、パスポートとカメラを入口で預けなければならなかった。パスポートを手放すのはかなり怖かったが、管理場所が小分けにされていて係員が手で適当に扱っているというわけではなさそうだったので、大人しく、絶対失くすなよと散々念を押しながら、置いていった。
シエラレオネはというと、ウガンダレベルで形式的にはあるが、ほとんどないのと同じである。

裁判所は自分が当事者の、もしくは傍聴予定の裁判を待つ人が廊下にたくさんいて混雑していた上にかなり騒がしかった。法廷で傍聴していた際、外が騒がしくて当事者と裁判官が何を言っているのかあまり聞こえなかった程だ。
また、裁判官は英語、当事者は現地語でやりとりをしていたが、英語があまり聞き取れずどういう内容の裁判なのかあまり把握できなかった。隣に座っていた人に内容を聞いたりしたが、どんなものだったか殆ど記憶に残っていない。今考えると、やや体調が悪かったせいだと思うが、どんどん傍聴する気力がなくなってきて少しうたた寝してしまう始末だった。前日、援助関係者の方にインタビューした際、NGO職員で裁判記録を取っている人がいるからその人と一緒に傍聴するといいと言われていたが、なるほどそういうことかと納得した。

シエラレオネ特別法廷、の近くの建物。
テイラー大統領公判の判決日は近かったが、開廷はしておらず。

メモとボールペンを持って何とか記録をとろうと裁判に耳を傾けていると、どうやら審理が終わったらしく、人々が法廷を後にし始めた。私も、そのまま他の裁判を傍聴する気力が起こらず、その足でまたオカダに跨り宿の方に戻り昼飯を食べることにした。とにかく頭が重くて、何をするにも元気が出ない。休息を取った方がいいと思い、涼しくて快適な時間が過ごせそうな、やや高めのレストランに行くことにした。
後から裁判の様子を思い返してみると、突っ込みどころ満載だが、当時はそこまでの知識はなかったし、そもそも気力がなかったから仕方ない。

レストランに向かう道。日差しが強く、昼は頭がくらくらする。

そのレストランは宿から徒歩30分程のところにあり、昼間の強い日差しの中を歩いていくだけでも一苦労だった。レストランに着いて昼飯を軽く食べてネットサーフィンをしたりぐーたらしていればどうにかなるだろうと思ったが、一向に体調は良くならず、むしろますます倦怠感が増していった。仕方がないので宿に戻って横になるべく再び歩き出す。帰り道に大きいスーパーがありアイスを売っていたので、買って後悔しなさそうなものを慎重に選び歩きながら食べたが、冷えたアイスはおいしくてもだるさまでは取り去らない。宿に着いたころには顔の半分に僅かに痺れを感じていた。本当にただの疲れだけなのか微妙なところだったが、とにかく寝ようと思い、15時頃から3時間ほど昼寝をした。
日本から持参していた薬も飲まずに爆睡して目を覚ますと既に外は薄暗くなっていた。体を起こすと頭が軽くなっている。どうやらただの疲れだったらしい。完全回復とまでは行かないが、だいぶ体調は良くなった。やはりダカールの最終夜に殆ど寝られなかったことが響いていたのだろうか。宿のアメニティは非常に重要であると痛感させられた。

子どもはどこでもかわいい。

その後は、宿の近くにある地元の人向けの小さなお店でチキンと魚肉の団子を頬張りながら地元民と1時間程話をした。シエラレオネではキャッサバや芋が主食らしく、せっかくだからそれを食べたいと思って地元の人がよく使うお店を紹介してもらったのだが、キャッサバばかり食べているわけではなく、こうした肉も食べているようだ。欧米人が入ったからなのか、それとも元々そういう食習慣だからなのか、どこに行っても食べられるものは変わらない。先入観を持ってはいけない。

夜ごはんを食べたお店のある通り。朝方ほぼ必ず雨が降るので地面が湿っている。

こうして特にハイライトもなくこの日は終わった。お休みは必要である。

2014年5月1日木曜日

写真: アフリカの裁判所

訪れた裁判所のうち写真に残ってるものを、数は少ないですが載せたいと思います。

リベリア最高裁とシエラレオネ地裁は写真が撮りづらかったため、ルワンダ最高裁・地裁は単に撮り忘れ、写真がありません。
リベリア最高裁は、見た目は立派だったので是非写真に残したかったのですが、警備が厳しくかないませんでした。側壁に「Justice Must Be Done To All」と書かれているのがとても特徴的でした。


ウガンダ地方裁判所@カンパラ(首都)
正面から。見た目通り、中もきれいで普通のオフィスのよう。

1階部分。おしゃれなカフェが併設されていた。


ケニア高等裁判所@ナイロビ(首都)
当時、大統領選挙の訴訟が行われていて欧米系含め報道陣が多かった。
訪れた中でもセキュリティチェックが一番厳しかった。


セネガル最高裁判所@ダカール(首都)
通り過ぎただけで傍聴まではせず。外観は立派。


シエラレオネ地方裁判所@ボー(地方都市)
シエラレオネ第二の都市、ボーの地方裁判所。
奥に見えるクリーム色の壁と赤茶の屋根の建物がそれ。
遠目でわかりづらいが、とにかくぼろく古い。
当時、半ズボンを履いていたことがドレスコードにひっかかり、傍聴はできなかった。

裁判所の壁に貼ってあったNGOのポスター。
性的暴力(Sexual and Gender Based Violence)の予防啓発を訴えている。

ほぼ完成している新しい裁判所の建物。屋根には一部ソーラーパネルもついている。

2014年3月31日月曜日

9/19 シエラレオネ2日目 フリータウンを駆け回る

昨日は移動ばかりで特別体力を使ったわけではないが、今まで訪れた国で恐らく一番貧しく全く見知らぬシエラレオネの土地で、ほぼ真っ暗闇の中なんとか無事に宿に辿りついて安心したのか、前日の蚊との闘いが尾を引いたのか、ネカフェから帰ってきてベッドで横になると、いつの間にか眠りに落ちていた。それくらい寝た時の記憶がない。午前1時くらいに一旦起きて荷物を整理してまた寝た。

この日は午前7時くらいに起きた。時差ぼけが何となく続いているのか、旅先ではいつも比較的早起きになる。カーポベルデでは午前6時には起きていた気がする。シエラレオネには1週間滞在予定で、事前に何人かシエラレオネに滞在されていた方に連絡していてお会いする予定だったが、それ以外は特に何も予定がなかった。バックパッカーの方のブログを読んでいるとシエラレオネには移動も含めてせいぜい4日程度しか滞在しないようで、いわゆる観光スポットはあまりないようだ。
マストでやらなければいけないことは次に訪れるリベリアのビザ取得で、この日に申請する予定だった。申請の翌日に取得できるので、木曜であるこの日に申請しておけば問題なかった。

宿の前の坂道。地元の人の生活の場。

昨日真っ暗闇の中彷徨っていた宿はほぼ海沿いで、門を出て少し歩けばすぐそこに海があった。周囲にはスラムが広がっており、昨日も感じた通り、とてもここに欧米人向けの宿があるとは思えなかった。宿の前の坂道沿いにコンクリ剥き出しの5階建ての廃墟があり、昨晩雨が降ったせいか、コンクリの内部を通る金属棒から水滴が不気味に滴っている。廃墟の側を通ると、工具を持った複数人の人影が見えることがあり、トンテンカンと何かを叩く音が聞こえてくる。修復したところで使えるようになるとはとても見えず、何をしているのかよくわからなかった。そんな廃墟が近くにあったことでとりわけ、シエラレオネの第一印象は、今まで訪れたどの国よりも貧しい、であった。
宿の前の道は急な坂になっており、それを上って行くと山腹を横に走る舗装された一本道に出ることができ、沿道には地元民向けのレストランや商店などが並んでいた。さらにその道を横断して坂道を上って行くと、Congo Crossを通る主要道路のCongo Town Main Roadに出る。

左手の奥に見える2階建ての建物が宿。右手はNGOの建物。奥に海が見える。

宿から坂道を上がったところにある商店街通り。

泊まった宿は、NGO職員が運営しており、国連やNGO、USAIDといった援助機関でインターンをしている欧米人向けに始められたもので、本来はバックパッカーのような旅人が来ることは想定されていない。オーナーが常駐しているわけではなく、その右腕とも言える職員が客からの料金の徴収や物資の調達、施設の管理を行っている。半地下を含めた3階建ての建物で、私は半地下の部屋に泊まっていた。1階にある共用リビングは、よくあるホステルのように使い古されたソファーが雑然と置いてあるのではなく、比較的こぎれいに丸いテーブルとそれを囲むように椅子、手入れのされたソファーが並んでおり、ここでくつろぐことができる。私の泊まった部屋はだだっ広い中に大きめのベッドと大きめの机、扇風機があるだけだったが、蚊帳はちゃんとあったし、プラグはタコ足で、扇風機は順調に風を送ってくれた。そんなわけでダカールとは比較にならない快適度で、特に飾り気のない部屋でも私は満足していた。

宿泊した部屋。エアコンは使えなかったが、きれいで快適だった。

9時頃、宿の人にお金を払って用意してもらったコーヒーと目玉焼きの朝食を食べた。昨日のオカダを呼び出し、程良い暑さの中、リベリア大使館に向かった。既に書いた通り、フリータウンは海沿いの町だが山が迫っているので険しくしかも未舗装の坂道が多い。リベリア大使館は宿とは山の反対側にあるので、山を一度登り切らなければいけない。オカダにはそんなに馬力がないので、かなり急な坂を一生懸命登っている時の音を聞くと壊れないかかなり不安になる。こちらはこちらで、道は細くてたくさん陥没しているので激しい上下の振動で振り落とされないように気をつけなければいけない。
私が初めてバイクに乗ったのは半年前にルワンダの首都キガリでバイタクに乗った時であった。日本でバイクに乗ったこともなかったのにいきなりアフリカでバイタクに乗ったのだ。当時は、2年半ぶりのアフリカでだいぶ縮こまっていた上、バイタクは危険だから乗らないと刷り込まれていたから、それに乗る気はなかったのだが、同宿の旅人に大丈夫だと言われ、到着初日から乗ってしまった。今から考えればヘルメット着用義務がしっかり守られていたルワンダしかもキガリのバイタクは恐らくアフリカの中で一番安全で、そこまで怖がる必要はなかったのだが、バイクの乗り方すらわからないままドライバーに命を預けるのはかなり怖かった。千の丘の国と言われるほど丘陵の多いルワンダの坂を下るのにドライバーの兄ちゃんの肩にしっかりしがみつき硬くなっている自分の姿を思い出すと滑稽だ。
フリータウンの坂道は相当急で、しかもデコボコも激しい。当然ヘルメットはない。相当に体を上下に揺られながら何とかバイクにしがみついていた。渋滞の少ないキガリの緩やかで舗装された坂道とは比べ物にならない。

丘の上から見たフリータウン。左手に海がある。

距離的にはそこまで遠くはないのだが、山を上りきり少し下るとリベリア大使館に到着した。大使館は2階建ての建物で、中に入るとおばちゃんが受付をしてくれた。通してもらった部屋は冷房が利いて涼しかった。
リベリアビザは申請者をEuropean、American、Chinese等々分類していて、カテゴリーに対応した価格がついている。ビザ情報のエントリーにも書いたが、事前の情報では、Japanese枠はなくChineseに分類されて90USDが相場かと思ったが、即日発効でしかも50USDで済んだという話もあり、やや金欠だったため50USD即日発効に期待していた。しかしその期待は簡単に裏切られ、あなたはChineseじゃないからEuropeanねと訳のわからないことを言われて100USD払う羽目になった。その場で100USDを支払い、翌日また受け取りに来てと言われ、手続きは終了した。

待たせていたオカダでまたオアシスに向かった。世界どこに行ってもインターネットが使えるのは本当に便利だ。オアシスは30分6,000レオネでwifiを使わせてくれる。通信速度はそこそこで、停電してもジェネレーターがあるからネットが使えないということもあまりない。
シエラレオネはセネガルやカーポベルデに比べて格段に物価が安く、多少金銭的に余裕があったのでクールブリーズというミント系のフルーツジュースを頼んでみたが私の口に合わず、16,000レオネもしたので調子に乗ったことを少し反省した。ちなみに後日オアシスで昼食をとったが、東南アジア風のカレーは上品でおいしかった。オアシスは海沿いの平坦な土地にある二階建ての一軒家で、店はエスニック調に内装されており素敵なレストランだ。白人の援助関係者がよくインターネットを使っている。

オアシスの看板。マレータウンジャンクションから少し歩いたところにある。

オアシスから見た海。


シエラレオネに来たのは紛争後の社会がどうなっているのか自分の目で確かめたかったからで、この後に訪れる予定のリベリアもその目的から訪問先に決めたものだった。2ヶ月間滞在したケニアの難民キャンプも相当貧しく、紛争中の社会の一側面を表している場所だったが、紛争の爪痕が残っているわけではなく、異なる。
渡航前に何人かフリータウン在住の知人を紹介して頂いていたので、その伝手で援助関係者にお会いする予定だった。この日はたまたま、知人がお世話になっている国連職員の方にお話を伺うことができた。
オフィスの場所がわからなかったのでオアシスの従業員にロンプラの地図を示しながらどの辺か教えてもらったのだが、この時、オアシスのオーナーと思われるおばちゃんがオアシスがロンプラで太字で紹介されているのを発見し大喜びしていた。喜びのあまり私にコピーを取っていいかと頼んできたほどである。私はもちろん快諾した。同時に、オアシスに来た人でこれまで私のようにお店の従業員にロンプラを見せた人がいなかったという事実に私は驚いた。確かにバックパッカーがよく使う宿はフリータウンの中心地にあり、オアシスや私の宿は中心地から離れていたため、バックパッカーがオアシスに来ることがほとんどないだろうとは想定できるが、これだけ援助関係者が出入りしているお店なのだから、誰か一人くらいロンプラを持っていてもいいのではないか。みな、自前のランクルがあって、お互いのオフィスの場所くらいわかるからロンプラなどいいらないということか。

こうして場所を把握してオフィスに向かった。オカダで近くまで行き、オフィスのゲートまで来ると、ダダーブでUNHCRのオフィスに出入りした頃を思い出した。ゲートにいるセキュリティに要件を告げてビジターパスをもらう。ダダーブでは自分の身分証があったからビジターパスはもらわなかったから、HCRにはよく来ていたからこの手続きが懐かしかった。
オフィスは内戦当時からあるらしく、コンクリートの平屋で白く塗られた壁は、内戦の傷跡か、所々汚れていた。先方はチャイルドプロテクションの担当者で、2013年4月からフリータウンでの勤務を始められた。アメリカで法曹資格を取った後、国内で子どもの人権保護活動に取り組み、その後はカメルーン、コートジボワールで開発コンサルの仕事をしていたそうだ。開発業界には珍しく30代前半なのに結婚して2歳くらいの子どももいらした。ご家族もフリータウンに住んでいらして、後日に奥様とお子様にも偶然お会いできた。ちなみにフリータウンの前はコートジボワールの首都アビジャンに2年ほど住んでおり、居住環境は「フリータウンとは比較にならない(程良かった)。」そうだ。
非常に素敵な方で、私はあまりに突然の訪問だった上、この方にお話を伺えると思っていなかったため質問をほとんど準備できておらず、事前の勉強で考えていたこと、その場の話の流れで思いついたこと等を伺ったが、親切に対応して頂いた。ここで伺った話については、後日に訪問したチャイルドプロテクションに取り組むNGO職員へのインタビューや事前の調査とまとめて掲載させて頂きたいと思う。

45分程のインタビューを終えると、私は外に出てただの旅人に戻った。日本から30時間もかけてシエラレオネまでやってきてインタビューをしてみても所詮はやはりただの旅人である。オフィスの近くには、内戦の主犯たるロバートテイラー元大統領の公判係属中のSpecial Courtの建物があったが開廷しているわけでもなく、外から見るしかすることがない。もう少し事前に質問を準備しておけばよかったと後悔しつつ、私は一旦宿に戻った。

私が訪れたオフィスのある一画の入り口。 


オフィスのある区画の近くを通る道路。舗装されているようないないような...。


左手にSpecial Courtが見える。

心機一転シャワーを浴びて、フリータウンの中心地に繰り出すことにした。やはりどこに行っても街歩きは必ずしなければいけないし旅の醍醐味である。再びオカダに跨って10分程度、中心地は案外近かった。フリータウンのシンボルに大きなコットンツリーがあることは有名だったのでとりあえずそれを目安に降ろしてもらうと思ったが、その周辺は警察が多くて交通規制されているから行けないよとドライバーはその周辺に止まることをなぜか執拗に嫌がっていた。世界有数の腐敗国家の警察は市民からこれほどまでに恐れられているらしい。幸か不幸か、一週間後に私もその洗礼を受けた。

フリータウンの象徴、コットンツリー。見た目以上に迫力がある。

ともあれ中心地に降ろしてもらったが、人通りも車通りも多くて活気はあるものの街全体が古く雑然としているように見え、やはり貧しいという印象を受けた。訪れる街を、「きれいだ」とか「活気があって大きい」とか、安易な一言でまとめたくないのだが、それでもこれが一国の首都かというくらい首都らしくなかった。

EcobankのATMがあったので思わず撮ってしまった。正常に動作するかは知らない。


海岸から山に向かって伸びる中心地の道路。沿道には露店が立ち並ぶ。

特に観光スポットがあるわけではないので、何をするでもなく街を歩き回っていた。前評判ではATMが一軒もないということだったが、ZurichやEcobankの支店があり、全く不可能というわけではなさそうだった。しかし、援助関係者の間では、ATMに入れるとカードが飲み込まれて返ってこないから絶対使わない方がよいと言われているそうだ。やはり現金は偉大である。
どの街に行っても中心地の道路沿いには屋台が並んでいるが、フリータウンは特にお店が多かった。サンダルや靴、服など日用品がたくさん並んでいる。雨季の終わりに訪れたため時折突如雨が降り出すことがあるのだが、それにも慣れたものであっという間に商品を傘の中に取り込んで雨が止むのを待っている。
私は、何かお土産になるような目ぼしいものはないかとお店を覗きながら歩いていたが、日用品ばかりで「シエラレオネっぽくてお土産になりそうなもの」は特に見当たらなかった。

露店に並ぶスーツケース。いくらネタでもスーツケースは持ち帰れない。

少し歩いて海沿いの道から坂を上るとコットンツリーが見えてきた。ここに来る前はただの木だと思っていたが、実物を見てみると想像以上に大きくて迫力がある。バックパッカーの先人が見る価値ありと言っていた理由もわかる。トトロに出てくる大きな木を彷彿とさせた。誇張でも何でもなく、本当にそう感じた。最も、木には大量のコウモリが住んでおり、コウモリに噛みつかれた日には狂犬病になってしまうかもしれない。

下から見上げたコットンツリー。シンボルだけあって見た目的に包容力がある。

コットンツリーからさらに海岸線と平行に西に足を伸ばすと、地元の人が買い物をしていそうな食べ物市場が出てきた。お昼も食べていなかったので何か果物でも買おうと思い、バナナとグレープフルーツ、パイナップルを買った。お店にいたおばちゃん達は白人が通りかかって立ち止まるのが珍しいらしく、立ち止まった私に声を掛けまくって何かを高値で売り付けようと必死だった。値段交渉が得意なわけではないが、地元の人とやりとりをするのは好きだったので、私はいろいろ個数を調整したりして粘ってみる。おばちゃん達も私の腕を掴んで離さず、相当粘り強い。こういう交渉で私は必ずやや高値を掴まされるのでこの時は相当交渉したつもりだった。しかし、おばちゃん達が余りに折れなかったので、相場はそんなものなのかと思い、私が折れてしまった。後で宿の従業員に聞いてみたところ、やはり高かったらしい。20円程度で2日分の朝食と間食が買えたと思って納得することにした。

食べ物を売る露店があった通り。露店がひたすら多い。


中心地の外れの方の様子。建物のぼろさが目立つ。

1時間半ほど狭い市内をぶらぶらした後、宿に戻って従業員のファトゥマにパイナップルを裁いてもらい、遅い昼食を取った。ウガンダのカンパラで毎日買っていたパイナップルより小さかったし、辛かったのではずれを引いたようだ。従業員のドナルドはそういうこともあるさ、と笑って慰めてくれた。

夕方18時に日本人の知り合いの方と待ち合わせをしていたので、それまで適当に時間を潰し、待ち合わせ場所のスーパーに歩いて向かった。スーパーは中心地とは反対方向のオアシス方面にあるもので、日用品から食料品まで海外から輸入ものが揃う大型のものだ。東アフリカで言うところのナクマットやウチュミである。やはりどこの国でも外国人向けのスーパーはあるようだ。
シエラレオネとリベリアでは、ビジネスの殆どをレバノン人と中国人が取り仕切っている。なぜレバノン人がこの地域に多いのか不思議に思う方も多いかと思うが、レバノンから新天地を求めてアフリカ大陸を南西に降りてきて行きついたのがこの辺りの地域だからだそうだ。伝聞なので真偽は確かではないが、それはともかく、彼らはとても商売がうまいらしい。このスーパーの後に食事をしたレストランもレバノン人が経営していた。中国人については、最近のアフリカ進出の流れで入ってきているものと思われる。シエラレオネで中国人を見掛けることは殆どなかったが、街の一角に中華料理屋があった。空港で私と一悶着あったのも中国人だったが、何かビジネスをやっているのだろうか。リベリアについては後日また触れたいと思う。

「アラビカ」でエビ・牛肉・鶏肉のグリルとポテトをおいしく頂き、知人のお宅にお邪魔させて頂いた。お宅を出たのは夜の22時半頃で人通りも相当少なくなっていたが、それでも歩けるということだったのでその日のうちに歩いて宿に戻った。久しぶりにちゃんとご飯を食べたので幸せな時間を過ごすことができた。

2014年3月5日水曜日

9/18 セネガル6日目・シエラレオネ1日目 眠れない夜

泊まっていたホステルの屋上から見た朝の街並み。

この日はほとんど寝ることができず史上最悪の形で朝を迎えた。

まず部屋に一つだけあったコンセントが壊れた。前に泊まっていたグレードが高い別の部屋はタコ足があり複数プラグ使用可能だったのだが、この部屋では裏の導線むき出しのぼろいプラグしかなかった。このプラグでドライヤーを使おうとしたところ、少しの間使えたものの、バチッという音とともに止まってしまった。前に同じ宿の別の部屋で変圧器が過熱か何かでプチっという音とともに動かなくなった時は、しばらくして変圧器が冷えるまで待ってもう一度コンセントにつないでみたら動作したので、今回も回復するかもと思いしばらく時間をおいて試してみたが、時間をおいて何をさしてみても電気が来ない。完全に壊れてしまった。これで生じた問題は二つである。まずファンが回らなくなったこと、次に電子機器の充電ができなくなったこと、である。前々日はファンが使えたので部屋の見た目の割には意外と快適に寝ることができたのだが、前日は暑さの中で寝ざるを得なくなった。まあ暑いことは織り込み済みなのでそこまで問題ではないのだが。iPadには次に宿泊するシエラレオネの首都フリータウンでの宿のデータが入っていたのだが、場所がやや複雑でまだちゃんと把握しておらず、しかも電池が残り7%しかない。本当は前々日に充電することができたのだが、前日にプラグのたくさんある部屋にグレードアップできる予定だったので、部屋が変わった後にまとめて充電しようと思い何もしなかったのだ。お陰で、iPadも携帯も電池が残り僅か、という状態でシエラレオネに入らなければならなくなった。ダメ元で従業員にプラグをどうにかしてくれとお願いしてみたが、全く歯が立たない様子で、しばらく粘った後にどこかに行ってしまった。直らないのだなと悟った私はそこでプラグを諦めた。ルワンダやウガンダで泊まっていた宿では、従業員に頼めばフロントで充電してもらえたであろうが、ここにはそれができそうな場所はなさそうで、そもそもiPadは高価だし、自分の目の届かない所に必需品を放置したくない。


泊まってた部屋。一泊1,000円なり。高過ぎ。

次なる問題は就寝時に発覚した。蚊がやたら多いのだ。おそらく、前日の夕方から大雨が降り続いたからだと思われる。部屋の窓には蚊帳はなく、ガラス戸も完全には閉まらないため、蚊がいるのにほぼ窓を開け放っているのと変わらない。カーテンがかかっていたが上に隙間があって全く意味をなしていない。
暑かったので最初はパンツ一丁で寝ようとしたが、体中を蚊が狙って来てとても寝られない。仕方なく長袖長ズボンを着るが、足・手・顔と露出してる皮膚をやつらは狙ってくる。靴下を履いてみたが、ズボンと靴下の隙間を狙ってくる。やつらの根性は半端ない。ズボンを靴下で挟み、なんとか足をガードすることに成功したが、まだ手を襲ってくる。手袋は持っていなかったのでこれ以上どうすることもできない。しかもファンがなく暑い。仕方なくiPadのカバーをうちわ代りに仰いだり、蚊の音が聞こえた辺りをカバーで叩きつけたりしたが、もう破れかぶれである。蚊の音と暑さで、寝付けてもすぐ起きてしまい何回も寝たり起きたりを繰り返した。できるだけこの部屋にいる時間を短くしようと思い、隣のアリババレストランで時間を潰したりしたが、それでも1時過ぎには部屋に戻ってきて横になった。私はこれまでそれなりにアフリカでマラリアに感染し得る地域に滞在してきたが、一回もマラリアにかかったことがなかったので、マラリアにかかりにくい体なんだと思う。しかしこれだけ蚊に刺されるとさすがに怖く、こうしてマラリアに怯えつつ、ほぼ寝ることができず朝を迎えた。

ちなみにマラリアはアフリカだけでなく東南アジアでも感染リスクがある。しかも、東南アジアのマラリアは薬に耐性を持ち始めているらしく、こうしたマラリアにどうやって対処するかが問題になっているそうだ(参考:http://www.irinnews.org/report/99673/stepping-up-the-fight-against-drug-resistant-malaria-in-se-asia)。アフリカではそのようなマラリアは確認されておらず、耐性持ちのマラリアの地域的拡大を防ぐことも課題とされているらしい。

朝5時頃に起床?した私は速攻でシャワーを浴びた。ほんの少し朝日が差し込んでくる程度の明るさの中、決してきれいとは言えない共用シャワーを浴びてさっぱりした私は荷物を整理して、一旦街中に出た。
この日のマストの任務は米ドルの入手である。次に向かうシエラレオネとリベリアには使えるATMがないという前評判を各方面から聞いていたので、現金不足にならないよう細心の注意を払う必要があったからだ。VISAカードでキャッシングをする予定だったが、ここで米ドルを入手できなかったら一貫の終わりである。もう少し現金を持ってくればよかったと激しく後悔するとともに、帰国したらシティバンクの口座を作ろうと固く決意した瞬間であった。

同宿だったアメリカ人から聞いていた宿の近くのATMは24時間営業であること、その利用の仕方等は前日に既に確認済みである。満を持してキャッシングするべくカードを挿入した。が、しかし、表示をよく見ると、CFA(セーファーフラン)キャッシングしかできないと書いてあるではないか!しかもピンコードだったかパスワードだったかが求められ、それをパッと思いつかず非常に焦った。確かにATMがあるからと言ってどこでも米ドルが手に入るわけはなく、カーポベルデの空港ですら融通の利いた両替ができなかったのだ。私が甘かった。

中心地のど真ん中に宿があったお陰で、大きな銀行の店舗を見つけるのは全く苦労しなかったが、朝起きたのが早過ぎたせいでどこもあと1時間ちょっとはあかないという状況だった。私は以前に東アフリカを旅した際によく見かけ、自分もダカールに来て一度利用したEcobankが一番信頼できると思っていたので、Ecobankを探していたのだが散々歩き回っても近くに見当たらず、止むを得ず、BICISなどの銀行を使うことにした。結局1時間近く歩き回って、銀行も開店。念のため窓口で米ドルでのキャッシングが可能か確かめてみたがやはりできないとのことだったので、ATMでキャッシングしてCFAを入手してから銀行窓口で米ドルに両替えした。それなりの額だったので無事に入手できるか最後までひやひやものだったが、何とか必要額手に入れることができた。これで一応は残りの旅を続けることができる。

中心地にある独立広場。この周辺にいろいろある。

宿に戻り、次なるミッションである部屋の代金交渉にとりかかる。定価7,500CFA(約1,500円)で元々の価格も大概高いと思うが、あんな目に合わされたので、絶対1,000円以下まで値切ってやると意気込んで臨んだ。しかしなかなか1,200円以下に下がりそうにないので、とりあえず来い、見ればわかる、と言いつけて屋上にある部屋まで連れてきた。
昨日プラグを直してもらうべく従業員の兄ちゃんを呼んだ時もそうだったが、部屋の入口に昨晩豪雨があったせいで水が溜まっているのに驚いていた。私は、別に水たまりがあるからと言ってマットレスが濡れたわけでもなく全く実害がなかったのでその辺は気にしていなかったのだが、水たまりがあることで部屋の見た目は頗る悪かったので、良い交渉材料の一つになった。
ある種の床上浸水です、プラグが壊れてます、ファンを使えず相当暑かったです、おまけに窓には蚊帳がなくガラス戸も中途半端にしか閉まらないので蚊が入りたい放題です、このように色々並べ立てるとあっさり1,000円までの値下げを了承した。正直なところ、宿泊施設としての質を考えれば500円でも高いと思っていたが、立地や水回りの良さを考えると止むをえないかと思った。

こうして宿のチェックアウトも済ませ、後は空港に向かうのみとなった。シエラレオネの首都フリータウンに向かうフライトは13時頃出発だったので11時頃に空港にいれば絶対大丈夫である。フライトはガンビアの首都セレクンダ経由で、シエラレオネの首都フリータウンに現地時間16時半頃到着する予定だ。ナイジェリアのArik Airを利用予定だったが、当時はナイジェリアの航空会社が危ないとは知らず、Arik Airのウェブサイトが高質に見えたことと、航空事故のデータベースに何も事故記録が出てこなかったことを根拠に大丈夫だろうと考えていた(西アフリカから帰国後にナイジェリアの航空会社が割と大きな事故を起こしていてひやっとした。参考:http://www.bbc.com/news/world-africa-24381066)。他にAir MorocやGambia Birdがあったがフライトスケジュールが合わなかったため利用しなかった。ちなみにGambia Birdはドイツ人だったか欧米人が設立した会社で、まだ設立から間もないそうだ。

カーポベルデへの移動で散々飛行機を使ったので、フライト予定時刻の1時間前にチェックインの列に並べば十分だろうとは思っていたが、1時間ちょっと時間に余裕ができたところでダカールで何をするか特に思いつかなかった。仕方なく9時頃に、宿の人に教えてもらったバス停までバックパックを背負ってえっちらおっちら歩いて空港に向かった。バス停は、それまで来たことがなかった南の方面にあったのだが、比較的街がきれいで、この辺も探索すれば良かったと少し後悔した。

バス停の近くの様子。水色の看板がEcobank。こんなところにあったのか。

バス停近くの屋台で砂糖がたっぷり入ったセネガルコーヒーを買って一杯軽く飲みつつバスを待ち、空港に向かった。バスは意外とすいており終始座っていられた。しかし途中で事故か何かがあったらしく30分くらい全く動かず、さすがにこれには焦った。この時は交通整理の警官が出張っていたが、そうでなければみんな我先にと行こうとしてカオスになっていただろうと思う。他の国に比べて信号は守られていたと思うが、信号がないところも多く、やはり渋滞が激しい。

空港に向かうバスの中の様子。大きく、かなりの人数が乗れる。

空港に向かう道中。タクシー乗り場ではないが、車が密集していた。

地元の人の足であるバスは、大きな通りをはずれて横道に入ったり戻ったりを繰り返して空港に到着した。空港に来るのはこれで4回目でさすがに慣れてくる。さっさとバックパックをチェックインカウンターで預けると、空港の外にお昼を食べに出かけた。
魚飯を食べたかったので地元の人がやってそうなお店に行き、チェブジェンがないか聞いてみたが出てきたのはフランスパンに目玉焼きを挟んだものでがっくりした。セネガルに来て魚飯を食べられずに終わるとは...。と肩を落としながら、椅子に座ってフランスパンを食べていると、隣にいたおじさんに、これちょっと試してみなよと、何やら赤色のシャーベット状の物が入ったペットボトルをもらった。見た目通り、ペットボトルに入った飲み物を冷凍庫で凍らせたフローズンのようなもので、全く寝れず疲れが残っていた私にはこれが非常においしかった。余りにおいしかった上に安かったので、2本のフローズンを平らげ、魚飯が食べられなかったことはさておき満足して空港に戻った。

お昼を食べたレストラン。空港のすぐ近く。

フローズン。チョコなど甘いものを食べる機会がなかったのでとりわけおいしかった。

お腹は満たされたもののとにかく眠かったので、出国手続きをした後に冷房の風が直接当たるベンチに横になって1時間程寝た。予想通り、当初の出発予定時刻は守られることなく過ぎて行き、40分くらい経ったところで搭乗手続きが始まったのだが、金属製でマットもないベンチに眠気だけで長時間寝ることはできず、寝過してもシャレにならないので、出発予定時刻を過ぎた辺りから起きて待っていた。


さて、いよいよ旅の後半、シエラレオネに突入である。私が今回の旅で最も楽しみにしていたシエラレオネ、リベリア両国への出発に心が躍ると同時に、新たな国に入る時に感じるいつもの緊張感を胸にダカールを出発した。

離陸した飛行機はすぐに下降し始め、ガンビアに降り立った。ここで乗ってきた乗客は皆豪奢で、民族的にも独特な顔立ちをしていた。顔が骨ばっていて、目つきが鋭く、皮膚が一際黒い。実はダカールの宿に泊まった時にガンビア人と少し話をしたので、ガンビア人に会ったのは初めてではなかったが、最初に会った人よりかなり特徴がはっきりした顔立ちをしているように思えた。ちなみにガンビア人の中で特にビジネスに長けている部族があるらしく、その民族の顔立ちが特徴的なだけかもしれない。
ダカールで話した時のガンビア人の印象はあまり良いものではなかった。これは同宿だったアメリカ人2人も同意見である。長時間コミュニケーションをしたわけではないのでかなり偏った感想にはなってしまうが、まず、ガンビアの首都セレクンダの宿が話題になった時に外資系の安宿の話をしたら「あれはダメだ」と頭ごなしに否定していて、そこまで否定することはないのでは、と感じた。また、彼らが買ってきたマンゴーを私に食べさせてくれたのだが(もちろん折角ごちそうしてくれた好意を無駄にはできないし、私もマンゴーが好きなので喜んでいくつか頂いたが)、その後アメリカ人2人とご飯を食べに行く予定だったので「おいしかった、ありがとう!もう大丈夫だよ。」と言うと、「まだマンゴーはあるのになんで食べないんだ」と語気強く言ってきた(ガンビア人の方も私がアメリカ人と外食することを知っていた。)。敢えて短い言葉にまとめるとすれば、自己肯定的(他社否定的)、押しつけがましい、という印象である。ただ、繰り返すようだが、ほんの30分くらい話しただけの印象で、他にもっと良い面がたくさんあるに違いないので一面的にガンビア人を捉えないようにして頂ければ幸いである。ちなみに彼らは学校の教師で、ダカールに教師の研修か何かで来ていたそうだ。



セレクンダの空港をすぐに出発し、飛行機はセネガル南部の都市Ziguinchorジガンショール、ギニアビサウの上空を通過していった。一番最初の計画ではセネガルからシエラレオネまで陸路で下る予定だったので、この辺りがどのような地域なのかには興味があったので上空から覗いてみた。
この辺りは降水量が多い低湿地帯なようで、蛇行した川がいくつも流れており、非常に特徴的な地形をしていた。
ちなみにギニアビサウはポルトガルが旧宗主国で、沖合の島国カーポベルデと同じである。しかし、民主制をほぼ確立しつつあるカーポベルデと対照的に、ギニアビサウはクーデタや内戦で政情不安定が続いているそうで、どうしてこのような違いが生まれたのか、個人的には非常に興味がある。

ジガンショールを通過して少しした辺りの地形。入り組んだ水辺が広がっている。

複雑な地形。雨季の終わりの時期だったため水位が高かったのかもしれない。

ギニアビサウの首都ビサウを上空から。

特に降水量が多いギニアビサウを過ぎ、しばらくするとギニアの首都コナクリが見えてきた。議会選挙を控え治安が悪化していたため、今回は訪問を断念した都市である。コナクリは一国の首都なのに頗る貧しいことで有名という話を聞いていたので、一度自分の目で見てみたいというのが訪問希望の動機だが、安全第一である。

ギニアの首都コナクリ。海に突き出た岬に位置するのが特徴的。

コナクリ上空。できればここも訪れたかった。

飛行機は17時過ぎ頃にフリータウンに着陸した。フリータウンは海沿いに位置していたが海岸線近くまで山が迫った丘の街だった。Lungi空港は街とは河川を跨いだ反対側の海岸の丘の上にあった。
思った通り、滑走路から見えた空港は古く、これから一週間のシエラレオネ滞在への不安がやや募ったが、事前にオンラインで申請した書類を見せてイミグレを通過し、空港の外に出た。
空港からフリータウンの中心地までは小型フェリーを使って海を渡るのが主流である。このことは様々なソースから聞いていたため、とにかく小型フェリーに乗ればOKだとは重々承知していたが、ただでさえ到着が1時間近く遅れたのに、今まで訪れた途上国の中でも貧しいシエラレオネという国の交通機関で明るいうちに宿まで辿りつけるのか、依然として不安であった。

Lungi空港のターミナル。

空港から出ると、どこの空港にもいるようなタクシー等の勧誘をされるがうっとうしいので全て無視する。しかしフェリー乗り場の場所を聞かなければならないので、とりあえず絡まれる心配のない外人に尋ねてみようと思い、近くにいたアジア系の人に声をかけてみたのだが、ここで思ってもみない経験をした。
相手は中国人で、私が声をかけてフェリーについて質問するなり、「お前は日本人か?」と尋ねてきた。私が「そうだ。」と答えると、なんと、「じゃあ教えてやらない」と言うではないか。ここは日本と中国とは遠く離れたシエラレオネで、日中関係とか何ら関係がない場所で、普通の旅人であればお互いに助け合いそうなところにこんなことを言われたので、少しイラッとしたがそれ以上に呆れて言葉が出なくなってしまった。こんな所でも反日感情に接することになったのが少し残念だった。
しかし、その中国人をガイドしており私の話を聞いていたシエラレオネ人が私にフェリーについて教えてくれたので、私は目的を達成できた。隣にいた中国人は途中からバツが悪くなったらしく下を向いていた。こうして私は少し不快な思いをしたものの、無事にフェリーのチケットを買うことができた。

空港の近くにあるフェリーの乗車券販売所。

空港の近くの様子。木造りの家が多かった。

フェリーは40米ドルとかなりお高いが、これを利用するほかはない。前は100米ドルでヘリコプターを使うこともあったそうだが、墜落事故があったとかで今は運航されていないらしい。空港からシャトルバスで海岸まで降りて行き、フェリーが到着するのを波止場で待った。既に17時を過ぎており、西から差し込んでくる夕日が非常にきれいであった。利用者はほぼ全員白人で、援助関係者と見て間違いないと思う。

夕日が美しい。

両側に泊まっているのが、これから乗るフェリー。

フェリーは小さく、乗客はライフベストを着なければならない。

比較的穏やかな海を恐らく時速60km程で順調に進み、20分程かかって対岸に到着した。知り合いの方は、海が荒れていてフェリーが揺れて非常に辛かったと言っていたが、私は風を切って大西洋の端っこを走るのが非常に爽快だった。

対岸の半島のほぼ先端にある波止場には、到着した人たちの迎えの車が何台も止まっていた。援助関係者はたいていランドクルーザーを自分で運転したり、またはドライバーを機関が雇っていたりして、タクシー等を使うことはほとんどない。こうした車に乗って快適に移動して行く人たちを羨ましく思いつつ、私はタクシーを探すことにした。オカダ(シエラレオネではバイタクのことをオカダという)は危険だという話を聞いていたので、できれば乗りたくなかったが、もうかなり陽は落ち暗くなってきておりバックパックを背負って暗闇をさまようのは避けたかったので、止むを得ず通りかかったオカダを使うことにした。

途上国では住所という概念が希薄なように思われるが、宿泊予定だった宿は住所らしい住所がとりわけないところにあった。そのため宿の案内に書いてあった道案内だけを頼りに何とか宿に向かうしかなかった。
シエラレオネで場所を示す時によく使われたのが、交差点名で、-- Junctionとか、... Crossとか、主要道路のそれに名前がつけられていた。宿の近くにあるのはCongo Crossで最初の目印である。13kg程度のバックパックと80kg弱の大の男を乗せたバイクは、夕闇の中、波止場近くの一応の舗装道路を走り、えっちらおっちら緩やかな丘を登る。最初は細めだった道路も走るにつれ交通量の多い道路に合流し、周囲はやっと街らしい雰囲気になってきた。オカダドライバーにここだと言われて到着したCongo Crossは思ったより近かった。ちゃんと歩道も整備された主要道路の交差点だったが、宿の案内に従ってそこから脇道に逸れると、一気にガタガタの未舗装の細い道になり、沿道には鉄板やレンガ、木材で建てた平屋が立ち並ぶ地元民の世界が広がっていた。こんなところに自分が目指している宿があるのかと不安にさせるそんな道だった。それでも最初に入った道は小さな商店街のようで人通りもそれなりにあったが、ガタガタとオカダに揺られながら道を下って行くと、さらに灯りも人通りも少なくなり、ますます不安が募るばかりだった。オカダドライバーも自信がない様子だったが、2,3分も走ると、「ここだ」と言って止まった。しかし、到着した場所には宿らしき建物は見当たらなかった。この頃は完全に日が沈み辺りは真っ暗である。そんなはずはないと思い、もう一度案内通りに道を辿ってみるようドライバーに頼みつつ、自分はフリータウン在住で宿を紹介して頂いた日本人の方や宿の人に電話し場所の手掛かりを探った。宿の人はまだしも、19時頃にいきなり焦った様子で電話をしてくるなど相手の方にとっては迷惑だったに違いない。普段であれば私はそんなことは絶対にしないが、この時はそれだけ焦っていた。
宿の案内と電話で得た手掛かりに従って再びバイクで走ったが、やはり同じ場所に辿りついた。どういうことなのかよく事態を飲み込めなかったが、宿の人に再び電話をすると、迎えに出てきてくれ、やっと宿に辿りつくことができた。宿は重厚で背の高い門があって、私の立っていた場所の隣にあったにも拘らず建物のシルエットすら確認できなかったのだ。何はともあれ無事に宿に辿りつけて安堵した。オカダドライバーの名前と電話番号を一応控え、15,000レオーネ(シエラレオネの通貨単位、略称はSLL。1SLL=0.02円)という考えられないほどの高値を支払、宿に入った。

宿のスタッフは非常に親切で、宿の周辺の案内もその日のうちに少ししてくれた。宿はやや高めだったがその分設備がよく、ダカールの宿とは比べ物にならなかったので一人で感動していた。温水シャワーが使えないのが玉に瑕だったがやむを得ない。
荷物を置くと、宿の近くのお店でソーダを飲み、ネットを使いに徒歩10分程のところにある東南アジア料理屋のOasisオアシスに行った。ついさっきまで暗闇を怖がっていたが、宿の人に夜でも荷物管理をしっかりすれば出歩いても大丈夫だと言われたので外出したのだ。
ネットを使ってから部屋に戻ってすぐに寝た。というより、気付いたら外着のままベッドの上に倒れこんで寝ていた。これから一週間のシエラレオネ滞在が始まる。