2014年3月5日水曜日

9/18 セネガル6日目・シエラレオネ1日目 眠れない夜

泊まっていたホステルの屋上から見た朝の街並み。

この日はほとんど寝ることができず史上最悪の形で朝を迎えた。

まず部屋に一つだけあったコンセントが壊れた。前に泊まっていたグレードが高い別の部屋はタコ足があり複数プラグ使用可能だったのだが、この部屋では裏の導線むき出しのぼろいプラグしかなかった。このプラグでドライヤーを使おうとしたところ、少しの間使えたものの、バチッという音とともに止まってしまった。前に同じ宿の別の部屋で変圧器が過熱か何かでプチっという音とともに動かなくなった時は、しばらくして変圧器が冷えるまで待ってもう一度コンセントにつないでみたら動作したので、今回も回復するかもと思いしばらく時間をおいて試してみたが、時間をおいて何をさしてみても電気が来ない。完全に壊れてしまった。これで生じた問題は二つである。まずファンが回らなくなったこと、次に電子機器の充電ができなくなったこと、である。前々日はファンが使えたので部屋の見た目の割には意外と快適に寝ることができたのだが、前日は暑さの中で寝ざるを得なくなった。まあ暑いことは織り込み済みなのでそこまで問題ではないのだが。iPadには次に宿泊するシエラレオネの首都フリータウンでの宿のデータが入っていたのだが、場所がやや複雑でまだちゃんと把握しておらず、しかも電池が残り7%しかない。本当は前々日に充電することができたのだが、前日にプラグのたくさんある部屋にグレードアップできる予定だったので、部屋が変わった後にまとめて充電しようと思い何もしなかったのだ。お陰で、iPadも携帯も電池が残り僅か、という状態でシエラレオネに入らなければならなくなった。ダメ元で従業員にプラグをどうにかしてくれとお願いしてみたが、全く歯が立たない様子で、しばらく粘った後にどこかに行ってしまった。直らないのだなと悟った私はそこでプラグを諦めた。ルワンダやウガンダで泊まっていた宿では、従業員に頼めばフロントで充電してもらえたであろうが、ここにはそれができそうな場所はなさそうで、そもそもiPadは高価だし、自分の目の届かない所に必需品を放置したくない。


泊まってた部屋。一泊1,000円なり。高過ぎ。

次なる問題は就寝時に発覚した。蚊がやたら多いのだ。おそらく、前日の夕方から大雨が降り続いたからだと思われる。部屋の窓には蚊帳はなく、ガラス戸も完全には閉まらないため、蚊がいるのにほぼ窓を開け放っているのと変わらない。カーテンがかかっていたが上に隙間があって全く意味をなしていない。
暑かったので最初はパンツ一丁で寝ようとしたが、体中を蚊が狙って来てとても寝られない。仕方なく長袖長ズボンを着るが、足・手・顔と露出してる皮膚をやつらは狙ってくる。靴下を履いてみたが、ズボンと靴下の隙間を狙ってくる。やつらの根性は半端ない。ズボンを靴下で挟み、なんとか足をガードすることに成功したが、まだ手を襲ってくる。手袋は持っていなかったのでこれ以上どうすることもできない。しかもファンがなく暑い。仕方なくiPadのカバーをうちわ代りに仰いだり、蚊の音が聞こえた辺りをカバーで叩きつけたりしたが、もう破れかぶれである。蚊の音と暑さで、寝付けてもすぐ起きてしまい何回も寝たり起きたりを繰り返した。できるだけこの部屋にいる時間を短くしようと思い、隣のアリババレストランで時間を潰したりしたが、それでも1時過ぎには部屋に戻ってきて横になった。私はこれまでそれなりにアフリカでマラリアに感染し得る地域に滞在してきたが、一回もマラリアにかかったことがなかったので、マラリアにかかりにくい体なんだと思う。しかしこれだけ蚊に刺されるとさすがに怖く、こうしてマラリアに怯えつつ、ほぼ寝ることができず朝を迎えた。

ちなみにマラリアはアフリカだけでなく東南アジアでも感染リスクがある。しかも、東南アジアのマラリアは薬に耐性を持ち始めているらしく、こうしたマラリアにどうやって対処するかが問題になっているそうだ(参考:http://www.irinnews.org/report/99673/stepping-up-the-fight-against-drug-resistant-malaria-in-se-asia)。アフリカではそのようなマラリアは確認されておらず、耐性持ちのマラリアの地域的拡大を防ぐことも課題とされているらしい。

朝5時頃に起床?した私は速攻でシャワーを浴びた。ほんの少し朝日が差し込んでくる程度の明るさの中、決してきれいとは言えない共用シャワーを浴びてさっぱりした私は荷物を整理して、一旦街中に出た。
この日のマストの任務は米ドルの入手である。次に向かうシエラレオネとリベリアには使えるATMがないという前評判を各方面から聞いていたので、現金不足にならないよう細心の注意を払う必要があったからだ。VISAカードでキャッシングをする予定だったが、ここで米ドルを入手できなかったら一貫の終わりである。もう少し現金を持ってくればよかったと激しく後悔するとともに、帰国したらシティバンクの口座を作ろうと固く決意した瞬間であった。

同宿だったアメリカ人から聞いていた宿の近くのATMは24時間営業であること、その利用の仕方等は前日に既に確認済みである。満を持してキャッシングするべくカードを挿入した。が、しかし、表示をよく見ると、CFA(セーファーフラン)キャッシングしかできないと書いてあるではないか!しかもピンコードだったかパスワードだったかが求められ、それをパッと思いつかず非常に焦った。確かにATMがあるからと言ってどこでも米ドルが手に入るわけはなく、カーポベルデの空港ですら融通の利いた両替ができなかったのだ。私が甘かった。

中心地のど真ん中に宿があったお陰で、大きな銀行の店舗を見つけるのは全く苦労しなかったが、朝起きたのが早過ぎたせいでどこもあと1時間ちょっとはあかないという状況だった。私は以前に東アフリカを旅した際によく見かけ、自分もダカールに来て一度利用したEcobankが一番信頼できると思っていたので、Ecobankを探していたのだが散々歩き回っても近くに見当たらず、止むを得ず、BICISなどの銀行を使うことにした。結局1時間近く歩き回って、銀行も開店。念のため窓口で米ドルでのキャッシングが可能か確かめてみたがやはりできないとのことだったので、ATMでキャッシングしてCFAを入手してから銀行窓口で米ドルに両替えした。それなりの額だったので無事に入手できるか最後までひやひやものだったが、何とか必要額手に入れることができた。これで一応は残りの旅を続けることができる。

中心地にある独立広場。この周辺にいろいろある。

宿に戻り、次なるミッションである部屋の代金交渉にとりかかる。定価7,500CFA(約1,500円)で元々の価格も大概高いと思うが、あんな目に合わされたので、絶対1,000円以下まで値切ってやると意気込んで臨んだ。しかしなかなか1,200円以下に下がりそうにないので、とりあえず来い、見ればわかる、と言いつけて屋上にある部屋まで連れてきた。
昨日プラグを直してもらうべく従業員の兄ちゃんを呼んだ時もそうだったが、部屋の入口に昨晩豪雨があったせいで水が溜まっているのに驚いていた。私は、別に水たまりがあるからと言ってマットレスが濡れたわけでもなく全く実害がなかったのでその辺は気にしていなかったのだが、水たまりがあることで部屋の見た目は頗る悪かったので、良い交渉材料の一つになった。
ある種の床上浸水です、プラグが壊れてます、ファンを使えず相当暑かったです、おまけに窓には蚊帳がなくガラス戸も中途半端にしか閉まらないので蚊が入りたい放題です、このように色々並べ立てるとあっさり1,000円までの値下げを了承した。正直なところ、宿泊施設としての質を考えれば500円でも高いと思っていたが、立地や水回りの良さを考えると止むをえないかと思った。

こうして宿のチェックアウトも済ませ、後は空港に向かうのみとなった。シエラレオネの首都フリータウンに向かうフライトは13時頃出発だったので11時頃に空港にいれば絶対大丈夫である。フライトはガンビアの首都セレクンダ経由で、シエラレオネの首都フリータウンに現地時間16時半頃到着する予定だ。ナイジェリアのArik Airを利用予定だったが、当時はナイジェリアの航空会社が危ないとは知らず、Arik Airのウェブサイトが高質に見えたことと、航空事故のデータベースに何も事故記録が出てこなかったことを根拠に大丈夫だろうと考えていた(西アフリカから帰国後にナイジェリアの航空会社が割と大きな事故を起こしていてひやっとした。参考:http://www.bbc.com/news/world-africa-24381066)。他にAir MorocやGambia Birdがあったがフライトスケジュールが合わなかったため利用しなかった。ちなみにGambia Birdはドイツ人だったか欧米人が設立した会社で、まだ設立から間もないそうだ。

カーポベルデへの移動で散々飛行機を使ったので、フライト予定時刻の1時間前にチェックインの列に並べば十分だろうとは思っていたが、1時間ちょっと時間に余裕ができたところでダカールで何をするか特に思いつかなかった。仕方なく9時頃に、宿の人に教えてもらったバス停までバックパックを背負ってえっちらおっちら歩いて空港に向かった。バス停は、それまで来たことがなかった南の方面にあったのだが、比較的街がきれいで、この辺も探索すれば良かったと少し後悔した。

バス停の近くの様子。水色の看板がEcobank。こんなところにあったのか。

バス停近くの屋台で砂糖がたっぷり入ったセネガルコーヒーを買って一杯軽く飲みつつバスを待ち、空港に向かった。バスは意外とすいており終始座っていられた。しかし途中で事故か何かがあったらしく30分くらい全く動かず、さすがにこれには焦った。この時は交通整理の警官が出張っていたが、そうでなければみんな我先にと行こうとしてカオスになっていただろうと思う。他の国に比べて信号は守られていたと思うが、信号がないところも多く、やはり渋滞が激しい。

空港に向かうバスの中の様子。大きく、かなりの人数が乗れる。

空港に向かう道中。タクシー乗り場ではないが、車が密集していた。

地元の人の足であるバスは、大きな通りをはずれて横道に入ったり戻ったりを繰り返して空港に到着した。空港に来るのはこれで4回目でさすがに慣れてくる。さっさとバックパックをチェックインカウンターで預けると、空港の外にお昼を食べに出かけた。
魚飯を食べたかったので地元の人がやってそうなお店に行き、チェブジェンがないか聞いてみたが出てきたのはフランスパンに目玉焼きを挟んだものでがっくりした。セネガルに来て魚飯を食べられずに終わるとは...。と肩を落としながら、椅子に座ってフランスパンを食べていると、隣にいたおじさんに、これちょっと試してみなよと、何やら赤色のシャーベット状の物が入ったペットボトルをもらった。見た目通り、ペットボトルに入った飲み物を冷凍庫で凍らせたフローズンのようなもので、全く寝れず疲れが残っていた私にはこれが非常においしかった。余りにおいしかった上に安かったので、2本のフローズンを平らげ、魚飯が食べられなかったことはさておき満足して空港に戻った。

お昼を食べたレストラン。空港のすぐ近く。

フローズン。チョコなど甘いものを食べる機会がなかったのでとりわけおいしかった。

お腹は満たされたもののとにかく眠かったので、出国手続きをした後に冷房の風が直接当たるベンチに横になって1時間程寝た。予想通り、当初の出発予定時刻は守られることなく過ぎて行き、40分くらい経ったところで搭乗手続きが始まったのだが、金属製でマットもないベンチに眠気だけで長時間寝ることはできず、寝過してもシャレにならないので、出発予定時刻を過ぎた辺りから起きて待っていた。


さて、いよいよ旅の後半、シエラレオネに突入である。私が今回の旅で最も楽しみにしていたシエラレオネ、リベリア両国への出発に心が躍ると同時に、新たな国に入る時に感じるいつもの緊張感を胸にダカールを出発した。

離陸した飛行機はすぐに下降し始め、ガンビアに降り立った。ここで乗ってきた乗客は皆豪奢で、民族的にも独特な顔立ちをしていた。顔が骨ばっていて、目つきが鋭く、皮膚が一際黒い。実はダカールの宿に泊まった時にガンビア人と少し話をしたので、ガンビア人に会ったのは初めてではなかったが、最初に会った人よりかなり特徴がはっきりした顔立ちをしているように思えた。ちなみにガンビア人の中で特にビジネスに長けている部族があるらしく、その民族の顔立ちが特徴的なだけかもしれない。
ダカールで話した時のガンビア人の印象はあまり良いものではなかった。これは同宿だったアメリカ人2人も同意見である。長時間コミュニケーションをしたわけではないのでかなり偏った感想にはなってしまうが、まず、ガンビアの首都セレクンダの宿が話題になった時に外資系の安宿の話をしたら「あれはダメだ」と頭ごなしに否定していて、そこまで否定することはないのでは、と感じた。また、彼らが買ってきたマンゴーを私に食べさせてくれたのだが(もちろん折角ごちそうしてくれた好意を無駄にはできないし、私もマンゴーが好きなので喜んでいくつか頂いたが)、その後アメリカ人2人とご飯を食べに行く予定だったので「おいしかった、ありがとう!もう大丈夫だよ。」と言うと、「まだマンゴーはあるのになんで食べないんだ」と語気強く言ってきた(ガンビア人の方も私がアメリカ人と外食することを知っていた。)。敢えて短い言葉にまとめるとすれば、自己肯定的(他社否定的)、押しつけがましい、という印象である。ただ、繰り返すようだが、ほんの30分くらい話しただけの印象で、他にもっと良い面がたくさんあるに違いないので一面的にガンビア人を捉えないようにして頂ければ幸いである。ちなみに彼らは学校の教師で、ダカールに教師の研修か何かで来ていたそうだ。



セレクンダの空港をすぐに出発し、飛行機はセネガル南部の都市Ziguinchorジガンショール、ギニアビサウの上空を通過していった。一番最初の計画ではセネガルからシエラレオネまで陸路で下る予定だったので、この辺りがどのような地域なのかには興味があったので上空から覗いてみた。
この辺りは降水量が多い低湿地帯なようで、蛇行した川がいくつも流れており、非常に特徴的な地形をしていた。
ちなみにギニアビサウはポルトガルが旧宗主国で、沖合の島国カーポベルデと同じである。しかし、民主制をほぼ確立しつつあるカーポベルデと対照的に、ギニアビサウはクーデタや内戦で政情不安定が続いているそうで、どうしてこのような違いが生まれたのか、個人的には非常に興味がある。

ジガンショールを通過して少しした辺りの地形。入り組んだ水辺が広がっている。

複雑な地形。雨季の終わりの時期だったため水位が高かったのかもしれない。

ギニアビサウの首都ビサウを上空から。

特に降水量が多いギニアビサウを過ぎ、しばらくするとギニアの首都コナクリが見えてきた。議会選挙を控え治安が悪化していたため、今回は訪問を断念した都市である。コナクリは一国の首都なのに頗る貧しいことで有名という話を聞いていたので、一度自分の目で見てみたいというのが訪問希望の動機だが、安全第一である。

ギニアの首都コナクリ。海に突き出た岬に位置するのが特徴的。

コナクリ上空。できればここも訪れたかった。

飛行機は17時過ぎ頃にフリータウンに着陸した。フリータウンは海沿いに位置していたが海岸線近くまで山が迫った丘の街だった。Lungi空港は街とは河川を跨いだ反対側の海岸の丘の上にあった。
思った通り、滑走路から見えた空港は古く、これから一週間のシエラレオネ滞在への不安がやや募ったが、事前にオンラインで申請した書類を見せてイミグレを通過し、空港の外に出た。
空港からフリータウンの中心地までは小型フェリーを使って海を渡るのが主流である。このことは様々なソースから聞いていたため、とにかく小型フェリーに乗ればOKだとは重々承知していたが、ただでさえ到着が1時間近く遅れたのに、今まで訪れた途上国の中でも貧しいシエラレオネという国の交通機関で明るいうちに宿まで辿りつけるのか、依然として不安であった。

Lungi空港のターミナル。

空港から出ると、どこの空港にもいるようなタクシー等の勧誘をされるがうっとうしいので全て無視する。しかしフェリー乗り場の場所を聞かなければならないので、とりあえず絡まれる心配のない外人に尋ねてみようと思い、近くにいたアジア系の人に声をかけてみたのだが、ここで思ってもみない経験をした。
相手は中国人で、私が声をかけてフェリーについて質問するなり、「お前は日本人か?」と尋ねてきた。私が「そうだ。」と答えると、なんと、「じゃあ教えてやらない」と言うではないか。ここは日本と中国とは遠く離れたシエラレオネで、日中関係とか何ら関係がない場所で、普通の旅人であればお互いに助け合いそうなところにこんなことを言われたので、少しイラッとしたがそれ以上に呆れて言葉が出なくなってしまった。こんな所でも反日感情に接することになったのが少し残念だった。
しかし、その中国人をガイドしており私の話を聞いていたシエラレオネ人が私にフェリーについて教えてくれたので、私は目的を達成できた。隣にいた中国人は途中からバツが悪くなったらしく下を向いていた。こうして私は少し不快な思いをしたものの、無事にフェリーのチケットを買うことができた。

空港の近くにあるフェリーの乗車券販売所。

空港の近くの様子。木造りの家が多かった。

フェリーは40米ドルとかなりお高いが、これを利用するほかはない。前は100米ドルでヘリコプターを使うこともあったそうだが、墜落事故があったとかで今は運航されていないらしい。空港からシャトルバスで海岸まで降りて行き、フェリーが到着するのを波止場で待った。既に17時を過ぎており、西から差し込んでくる夕日が非常にきれいであった。利用者はほぼ全員白人で、援助関係者と見て間違いないと思う。

夕日が美しい。

両側に泊まっているのが、これから乗るフェリー。

フェリーは小さく、乗客はライフベストを着なければならない。

比較的穏やかな海を恐らく時速60km程で順調に進み、20分程かかって対岸に到着した。知り合いの方は、海が荒れていてフェリーが揺れて非常に辛かったと言っていたが、私は風を切って大西洋の端っこを走るのが非常に爽快だった。

対岸の半島のほぼ先端にある波止場には、到着した人たちの迎えの車が何台も止まっていた。援助関係者はたいていランドクルーザーを自分で運転したり、またはドライバーを機関が雇っていたりして、タクシー等を使うことはほとんどない。こうした車に乗って快適に移動して行く人たちを羨ましく思いつつ、私はタクシーを探すことにした。オカダ(シエラレオネではバイタクのことをオカダという)は危険だという話を聞いていたので、できれば乗りたくなかったが、もうかなり陽は落ち暗くなってきておりバックパックを背負って暗闇をさまようのは避けたかったので、止むを得ず通りかかったオカダを使うことにした。

途上国では住所という概念が希薄なように思われるが、宿泊予定だった宿は住所らしい住所がとりわけないところにあった。そのため宿の案内に書いてあった道案内だけを頼りに何とか宿に向かうしかなかった。
シエラレオネで場所を示す時によく使われたのが、交差点名で、-- Junctionとか、... Crossとか、主要道路のそれに名前がつけられていた。宿の近くにあるのはCongo Crossで最初の目印である。13kg程度のバックパックと80kg弱の大の男を乗せたバイクは、夕闇の中、波止場近くの一応の舗装道路を走り、えっちらおっちら緩やかな丘を登る。最初は細めだった道路も走るにつれ交通量の多い道路に合流し、周囲はやっと街らしい雰囲気になってきた。オカダドライバーにここだと言われて到着したCongo Crossは思ったより近かった。ちゃんと歩道も整備された主要道路の交差点だったが、宿の案内に従ってそこから脇道に逸れると、一気にガタガタの未舗装の細い道になり、沿道には鉄板やレンガ、木材で建てた平屋が立ち並ぶ地元民の世界が広がっていた。こんなところに自分が目指している宿があるのかと不安にさせるそんな道だった。それでも最初に入った道は小さな商店街のようで人通りもそれなりにあったが、ガタガタとオカダに揺られながら道を下って行くと、さらに灯りも人通りも少なくなり、ますます不安が募るばかりだった。オカダドライバーも自信がない様子だったが、2,3分も走ると、「ここだ」と言って止まった。しかし、到着した場所には宿らしき建物は見当たらなかった。この頃は完全に日が沈み辺りは真っ暗である。そんなはずはないと思い、もう一度案内通りに道を辿ってみるようドライバーに頼みつつ、自分はフリータウン在住で宿を紹介して頂いた日本人の方や宿の人に電話し場所の手掛かりを探った。宿の人はまだしも、19時頃にいきなり焦った様子で電話をしてくるなど相手の方にとっては迷惑だったに違いない。普段であれば私はそんなことは絶対にしないが、この時はそれだけ焦っていた。
宿の案内と電話で得た手掛かりに従って再びバイクで走ったが、やはり同じ場所に辿りついた。どういうことなのかよく事態を飲み込めなかったが、宿の人に再び電話をすると、迎えに出てきてくれ、やっと宿に辿りつくことができた。宿は重厚で背の高い門があって、私の立っていた場所の隣にあったにも拘らず建物のシルエットすら確認できなかったのだ。何はともあれ無事に宿に辿りつけて安堵した。オカダドライバーの名前と電話番号を一応控え、15,000レオーネ(シエラレオネの通貨単位、略称はSLL。1SLL=0.02円)という考えられないほどの高値を支払、宿に入った。

宿のスタッフは非常に親切で、宿の周辺の案内もその日のうちに少ししてくれた。宿はやや高めだったがその分設備がよく、ダカールの宿とは比べ物にならなかったので一人で感動していた。温水シャワーが使えないのが玉に瑕だったがやむを得ない。
荷物を置くと、宿の近くのお店でソーダを飲み、ネットを使いに徒歩10分程のところにある東南アジア料理屋のOasisオアシスに行った。ついさっきまで暗闇を怖がっていたが、宿の人に夜でも荷物管理をしっかりすれば出歩いても大丈夫だと言われたので外出したのだ。
ネットを使ってから部屋に戻ってすぐに寝た。というより、気付いたら外着のままベッドの上に倒れこんで寝ていた。これから一週間のシエラレオネ滞在が始まる。

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