2013年10月14日月曜日

9/13 セネガル2日目 アフリカ大陸最西端とゴレ島へ

セネガルと日本の時差は9時間である。セネガルの夜9時は日本の朝6時を意味する。昨日はベッドに横になってネットサーフィンをしてたらいつの間にか寝てしまっていた。午前5時頃に携帯のアラームで目覚めた自分はそんなことを考えつつ一旦起床した。時差を直すべくもう少し寝ようとベッドで1時間半程もがきつつ、結局起床したのは午前7時頃である。

今日の目標は、観光をしつつ宿を変えること。午前中はせっかく宿が空港に近いのだからアフリカ大陸最西端を訪問、午後は街中のホステルに宿を変えつつ、ガンビア大使館でビザの申請をしてからゴレ島を観光。
アフリカ大陸最西端というのは、あまり人気のある観光地ではない。なぜなら、街の中心地から5km近く離れていて遠い上、何か特別な施設があるわけでもないからだ。それでも自分がそこに行きたいと思うのには何か特別な理由があるのかというと、そういうわけではない。ただ単にミーハーなだけである。せっかく短い休みを使ってこんなところまで来たのだから見に行かなくては
そんなしょうもない理由で目指したためなのか、ただ単にフランス語ができないからなのか、たった4km程度離れているに過ぎない目的地に着いたのはなんと出発して3時間後である。3時間と言えば、札幌ー福岡間のフライトより長いのではないだろうか。とりあえず主要交通機関はバスであるということだけ把握していた今朝の自分は、英語の通じない宿の係員に大きい荷物を預けた後、乗るべきバスの番号を聞き出して出発した。ルワンダやウガンダであればその辺を走っているバイクタクシーを捕まえて好きなところに連れて行ってもらえばいい。バイタクがないとはなんと不便な街だと自分勝手に思ったが、ないものは仕方ない。

バス停。

バスは多くの国においてそうであるように、番号毎にルートが決まっている。道端に立っている、標識にバスの番号が複数記されており、自分の乗りたいバスが来るまでそこで待つ。バスのフロントガラスに番号が記されており、それで判別するという仕組みだ。バスには運転手の他、牢屋の如き鉄格子に囲まれた空間に添乗員がおり、乗客は自分の目的地に応じてそこで料金を支払う。料金は最低100フランで20円と大変お得である。100フランと150フランの2種類の乗車券があり、大きなバスだと後者、小さなバスだと前者という棲み分けだと思われる。小さい方のバスの車体は日本のものを少し小さくしたくらいで、白くペイントされている。大きい方のバスは青の中に黄色い細い線が引かれており電光掲示板に行き先が表示されている。こうして、どれが公営のバスなのか一目でわかるのだ。


添乗員室。鉄格子がものものしい...。

昨日、タクシーにぼったくられた自分は、同じ轍を踏まないようにバスに拘ることにしていた。もしタクシーに乗っていたら、1時間で行って帰って来られたと思う。
バス停で待つこと数分、25番のバスがやって来た。予定通りに乗りこみ安心していると、添乗員が自分に話しかけてきた。バスに乗ったままお金を支払わずにいたからだ。
「お前はどこに行くんだ。」
「半島の先っぽの方に行きたいんだけど」
「じゃあ次のバス停で4番に乗り換えるんだ」
添乗員の兄ちゃんは、どこに行きたいのかよくわからない自分の曖昧な説明を解釈した上、支払ったお金を親切にも返してくれた上に案内までしてくれた。セネガルに着いたばかりで、どんな国民性なのかわからず手をこまねいていたので、これはいろんな意味でありがたかった。ところでバスの乗客を見ていると、添乗員の「牢屋」から遠くにいても、周りの乗客が協力して小銭を手渡しして支払っていた。ナイロビの乗り合いバスではポケットのものを取るスリに気をつけろというけど、それとは対照的で平和な光景だった。セネガル人はいい人なのかもしれない。
4番に乗れば最西端の近くには辿り着くのだろうとなぜか錯覚した自分は、4番バスの終点で降りて海辺に向かって歩いた。実際はまだ目的地まで3,4kmも離れていたのだが、その時点ではそれに気付いておらず、地元民が漁に使う大量の細長くカラフルなボートと、海辺に打ち上げられた魚たちの死骸を横目にしばらく砂浜を歩き回った。

大西洋。曇りがちでやや幻想的だった。

自分がしばらく歩いた砂浜には、アフリカ大陸最西端が近いなどという事実とは全く無縁な、地元民の日常が広がっていた。青・赤・黄色など様々な色の縞模様が描かれた地元民の細長い木製の漁船が無数に並べられており、二本の太い丸太でベルトコンベア式に海に押し出されたボートは、その姿に凡そ似つかわしくないモーターを備え付けられて海に出て行く。その傍らには、その日上がったばかりの収穫物を砂浜にぶちまけ、大きさや種類で分類したり、既に仕分け終わって地元民相手に売っている漁師がいる。大きめのプラスチック製のタライの中で平べったい魚が幾重にも重なり、太陽の光を受けて銀色に輝いていた。緩やかに弦を張った弓のような砂浜にさざ波が静かに浜に打ち寄せる。空には薄暗い雲が垂れ込めており、どんよりと漂う日差しがある種幻想的な空間を作り出していた。それはそれ、これはこれ。

地元民のカラフルなボート。

漁に出ようとしているボート。

その日に獲れた魚を砂浜にぶちまけ分類している様子。

結局、砂浜を1時間近く歩き、目的地が程遠いことに気付いた自分は、またバスに乗ることにした。幸い、近くの幹線道路にバス停があったため、通りかかったバスに飛び乗り、次にどのバスに乗れば良いか、先ほどと同じ要領で聞くことができた。こうして目的地最寄りのバス停にたどり着くまでにバスを3回も乗り換え、バス停から最終目的地まで徒歩で15分程度もかかり、やっとの思いでアフリカ大陸最西端に到着した。そこは高級ホテルで、鮮やかな水色のきれいなプールでは欧米人観光客と思しき人が優雅に泳いでおり、汗だくだった自分にはとても羨ましかった。アフリカ大陸最西端の光景であった。

開放的なホテルで何のチェックもなしに入れた。

鮮やかな水色のプール。

しかし、肝心のアフリカ大陸最西端にあるものと言えば、世界各都市までの方角と距離を示した木の標識だけである。自分の他に観光客は誰もいない。非常にあっさりしている。これもアフリカ大陸最西端である。シドニーの方が東京より4,000km近く遠かったのが印象に残ったが、それ以外は特に何も感じなかった。既に午前11時を回っており宿の人との約束の時間から大きく遅れていたため、早速バス停目指して歩き始めた。

 
アフリカ大陸最西端にあるのはこの標識だけ。東京は約14,000kmも離れている。

行きでバスの乗り方をある程度習得した自分は、47番と63番バスに乗り、快調に宿の近くのVDNルートに到着、宿に置いていったバックパックを回収しタクシーでダカール中心部を目指した。タクシーで海沿いの道を走ったが、きれいに舗装されている上に渋滞もないため、非常に快適だった。半島西部の海沿いの道には、短かったがトンネルもあり、ダカールの都会ぶりを伺わせた。

最西端近くの町。街並みがきれいだった。

海沿いの道から見たダカール中心地。写真があまり良くない...。

次なる宿は既に決まっていた。おそらくバックパッカーの間では有名な宿であるが、地元ではそうでもないため、隣にあるレストランの名前であるアリババを連呼して辿り着いた。街の中心地にあり地価が高いためか、ホステルはアパートの数室を買って経営されているもので、個別のシャワー・トイレ付きの部屋はないし、蚊帳もない。しかし抜群のロケーションは他に替えがたかったため、自分は10,000フラン(2,000)で一室に宿泊することにした。


宿のある通り。翌日の早朝に撮った写真なので人がいない。

部屋の案内をしてもらっている最中、隣室のアメリカ人二人と出会った。そのうちの一人はアメリカの青年海外協力隊で、2年間ギニアの農村で理科を教えていたそうだ。ギニアといえば首都コナクリが首都と思えないほど貧しいことで有名である。1ヶ月200ドルで生活していたそうだ。ギニアに日本の協力隊はいないし、政情も安定しているとは言えないし、そんな中で生活しているのはただただすごいと思った。

宿も決まり落ち着いたところで次の予定に移ろうとしたところで大きなトラブルが発生した。次に行く予定であったガンビアの大使館の場所が宿の近くから移動しており、予定通りガンビアに移動するまでにビザを取得できなくなったのだ。最新版2013年版のLonely Planet(地球の歩き方の世界版のようなもの)を入手して安心していた自分は不意をつかれた。トラブルと言っても、パスポートを盗まれたとかそういう大打撃計系ではなく、旅のルートを変えればいいだけの話であるが、時間の制約が大きい中でルートを再構築するのは少し大変だった。翌日14日(土)から18日(水)までのルートを今日中に考えなければならなくなった。
ここでまず最初に得たアドバイスが、「ガンビアは評判が良くない」と「カーポヴェルデは行った人の誰に聞いても評判がいい」というものだ。先ほどの同宿のアメリカ人が言っていたのだ。カーポヴェルデとは、セネガルの沖合約600kmほどにある島国で、観光業が盛んなことで有名らしい。その話を聞いた時点では、「確かに、先人の日本人バックパッカーでそんな国に行っていた人がいたな」程度にしか考えず、まだ決めきれなかった。

とにかくその日のうちに自分はゴレ島に行くつもりだったので、気持ちを切り替えてゴレ島への定期便が発着する港に向かい13時半ごろ到着した。ゴレ島は、郊外のラックローズを除いて、ダカール最大にして唯一の観光地であり、ダカールの半島部分の南西1km程に位置する。その昔、まだ奴隷貿易が行われていた時代、ゴレ島は奴隷貿易の拠点として使われていた島だったそうで、輸出する奴隷を収容していた施設や大砲が残っており、世界遺産に登録されている。他方で、そんな暗い歴史とは裏腹に、黄色やオレンジなど明るく彩られた建物と黄土色の土のコントラストが映える町並みは美しく、道端で観光客相手にお土産を売る青年らが奏でるマラカスの音が心地よい。そんなゴレ島に、小型船に揺られて向かった。

船から見たゴレ島。

定期便は1時間から1時間半に一本程度発着しており、片道20分ほどで到着する。さすが世界遺産、乗客には白人も多く、黒人も観光客ばかりだ。チケットは往復5,000フランと立派な価格で、日本円にして約1,000円である。さらに、待合室にはゴレ島在住のガイドが何人もおり、ゴレ島到着後のガイドを申し出ている。自分はこういう勧誘を好意と勘違いして後でお金をせびられるのが嫌なので、適当に話を聞きつつ断った。
島の波止場の近くには20m程の小さなビーチがあり、黒人の若者を中心に海水浴をしていた。その後ろには、観光客を待ってましたと言わんばかりに高めのレストランや民芸品店が並んでいる。もともと、奴隷の収容されていた施設などにあまり興味を持てなかった自分は、カラフルな建物の間を練り歩いて町並みを楽しみつつ、一通り見るべきものを見て、1時間半後の便で帰ろうと思っていた。ただ、先人のバックパッカーの話から、マラカスは面白そうだったので、道端でマラカスを売っている兄ちゃんに値段を聞いて回って相場を見極めてからマラカスを買うつもりでいた。マラカスはいわゆる普通のマラカスではなく、20cmくらいの紐の両端に直径10cm程の木の実のような玉がくっついており、玉を振って玉の中のビーンズを鳴らしたり、玉同士をぶつけることで音を出すものだ。値段交渉の末、3,000フランでマラカスを買い、演奏の仕方を教わったが少し難しい。まず、中指と薬指の間に紐をはさみ、片方の玉を手のひら側に出す。もう一方の手の甲の側の玉を、手のひら側の玉にまずは下から、次に上からぶつけ、玉を抑えてシャカシャカと鳴らす。カンカンシャカシャカ、カンカンシャカシャカという感じだ。これを両手でやるのがベースになるらしい。慣れてくるとペン回しのように無意識でやっていそうで怖い。

ゴレ島の街並み。色鮮やかで美しかった。

石畳の道も街に溶け込んでいた。

港湾にある小さなビーチ。

マラカスを売ってくれた兄ちゃんは、セネガル独特のコーヒーも味見させてくれた。最初飲んだ時はおいしいと思ったが、本当に飲んで大丈夫なのかと後で不安になるくらいによくスパイスがきいている。こうしたスパイスのきいていない、チャーイのようにただただ甘いコーヒーも街中にはあるので、ここでこのコーヒーを味わうことができて良かった。

コーヒーを飲む兄ちゃん。この人からマラカスも買った。

ゴレ島の観光を終え、夜は知人の紹介で日本人の方とお食事させて頂き、おいしいシーフードを食べることができた。まだアフリカに来て2日目なので日本食など美食への渇望は全くなかったが、それでもとてもおいしかった。

ダカールの夜は、風が通らないとジメジメして暑く、その日はなかなか寝れずに苦しんだが、なんとか眠ることができた。

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